≪メッセージの要旨≫  2019年   7月 7日   聖霊降臨後第4主日     


        
聖書 : ルカによる福音書       9章 18〜26節

        
説教 :  『 自分の十字架を背負って 』   木下 海龍 牧師 


 マタイ 11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
            休ませてあげよう。

     11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
            そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

     11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。
このイエスの言葉は今もここで響いております。
われわれが人生の途上で出会うすべての人がつらい状況にありながらも
自分の役割を果たすべく前向きに生きていると思うからです。
そして聖書の言葉を信仰と生活の規範にしている教会にとっては、その教会の頭はイエスであり、
イエスを頭としているその体であるキリスト者はこの言葉に則って生きているはずなのです。
ですから、
すべての人が、イエスキリストに招かれており、休息(安息)を約束されているのです。
それですから教会はすべての人の休息の場であり共同体であろうとしております。
自分の居場所として自らの意志で教会を選択し、教会はその人を歓迎していいのです。

以上のことを大前提として生活している私たちに、「自分の十字架を背負って」の言葉が語られているのです。
だとすれば、
この両者のつながりをどのように考えて受け止めて、今を生きる指針にすればよいのでしょうか。
大いなる力によって自分は生かされている。
そこから推し量って、
今、眼前に出会っている具体的なこの人もまた大いなる力によって生かされているのだ、と共感の共有にもなって参ります。
私どもが生きているこの時代は、経済格差の中にいるのですが、過ってのように、
戦争で死ぬとか、クリスチャンだから何時刑務所に入れられるかと言った不安の中にいるわけではありません。
こうした現状の中で、「自分の十字架を背負ってイエスに従う」場面とはどうゆうところが考えられるでしょうか。
自分の十字架を背負うとは、
自分の日々の生活圏の中で、ささやかなやり取りの中でそれが問われているのではないでしょうか。
他の誰かがその生き方を押し付けるものでなく、
あくまでも、自分で判断した自分の十字架であると受け止めてみるのも助けになるでしょう。 ※1

聖書的には人はそれぞれの違いと役割がある事、
そこにはこの世的な優劣の判断はしないが、平等の中にも違いがあることを認めています。
それぞれが頭であるイエスに有機的に繋がっているから双方がお互いに繋がっている、
と体の各機関の例を出して、パウロは教えております。

 ルカ 9:23 それから、イエスは皆に言われた。
           「わたしについて来たい者は、
            自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

「自分を捨て」は自分の役割だけを考えて済ませるのではなく、
同時に頭であるイエスが願っておられることを果たすために行動し、
かつ次の行動のために常に控えていること、これが自分を捨てることです。
「いのち」全体のことを有機的に考慮して実践する生き方へと招いている詞です。
自分の役割だけではなく、共に生活している他者の役割も考量して生きる生き方と言えましょう。
さらに端的に言うならば、
共に生きる人、或いはすれ違う縁のある他者の「いのち」と響きあって、
感動を与えられながら生きているならば自分の十字架を背負ってイエスに従って居ると言えるのではないでしょうか。
最近、二つの講座を聞く機会がありました。
一つは鈴木岩弓(東北大学教授)の「イエなき時代の死者の行方」全五回の講義。
も一つは6月28日、小池眞規子 目白大学教授の「がん医療とこころのケア」でした。
何れも感銘深く拝聴し、それに触発されて今日の説教の黙想時には私の頭と心の中に巡っております。
そこでのひらめきの一つに、
自分の十字架を背負うことの一つとして、
語釈とは別に、眼前に当面して、その人の人生の一部に対峙している場合があるのだけれども、
その場合に、
聖書的にとか、キリスト教的にとかに拘らずに、時間はかかるのだがその人に寄り添う、
いそいで終わらせる解決的な結論をださないで、
相手との呼吸に合わせるようにして待つ時間に身を置くこともまた自分の十字架を背負ってゆく生き方ではないのだろうか、と。
イエスの生涯は
当時差別されていた女性や病人、日銭を稼ぐために安息日に参拝に行けなくて働いている人に寄り添って生きる、
その人が生きてゆく上で「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と励まされたのですから。
ここには聖霊が導いて生きる生き方の大原則が示されているのであります。
何をするにしても、仮にどんな仕事に就いたとしても、イエスに従うと言うコンセプトの中で生きることです。
自分の十字架を背負って従う、生きることがキリストに従う生き方のコンセプトの中で生きるのです。
生きることが従うこと、従うことが生きること、そういった在り方です。
そうした生の生き方には節制もまた自ずから選択されてくるものであります。

 マタ 17:21 口語訳〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。 

節制とは祈りと断食の生活のことです。
高齢になってみて実感します。
人には24時間しかないのですからBを行うためにはAの時間を削ることにもなります。
体力が弱まった時には、労働と休息を塩梅よく配慮せざるを得ませんし、他の人に代わってもらうことにもなります。
金銭的にも優先順位を決めて何かを断念するほかはないでしょう。
祈りは、
自分の心が限界のある弱い肉体へ気遣いに忙殺されて本来の純粋無垢な状態から乖離してしまっている状態を
本来の幼子の心の状態へと帰還する作業でもあります。
疑いも猜疑心もなく,ひたすらに父である神に信頼してやまない純粋無垢な心に帰る作業とも言えます。
画一ではなく、自分の十字架を背負うのです。
自分の十字架があるものです。
他人が代わりに負えないものです。
そうすれば人生を悔いることは少なくなるでしょう。
十字架を背負って生きる生活には、出来るだけメリハリを付けた生き方になるでしょう。
私はカソリック司祭やシスターと一緒にキャンプや黙想会をしたことがありますが、
その点で学ぶことがたくさんありました。
1週間前後共同生活をするのですが、
一日の共同プログラムが終えた後の、個人の空間と時間を最大限に尊重しております。

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