≪メッセージの要旨≫  2019年   8月 18日   聖霊降臨後第10主日     


        
聖書 : ルカによる福音書       12章 49〜53節

        
説教 :  『 火を地に投ぜん為に 』   木下 海龍 牧師 


 ルカ12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。
            その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。

 文語訳「我は火を地に投ぜんとて来たれり、此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん。」

 田川訳「火を地上に投ずるために私は来たのだ。
        そして、すでに燃え上がっていることをどれほど欲しているか。


西武新宿線の武蔵関駅から10分ほど歩いたところにあるイエズス会の修道院にはある時期によく通いました。
その壁には上の文語訳が筆で書かれて壁に掲げてありました。
この時は門脇佳吉神父(1026−2017年7月27日91歳)が師家として開催された接心に参加しておりました。
私の中に聖霊の火が投じられることを願って沈黙の領域に入ろうと努力しておりました。
言語的・分析的な知とは別に非言語的・包括的な知、暗夜の光の知に至ろうともがいておりました。
随分と前のことですが、この箇所を読むと思い出されます。

「火を投げ込む」とはどういうことでしょうか。
この地上に、この私に火が投げ込まれるとはイエスがこの世に受肉した目的は「地上に火を投ずる」ためである。
火を投げ込む具体的な場面は福音書ではどの場面でありましょうか。
実際の火を投げ込む場面は福音書にはありません。

「火を投げ込む」この「火」は隠喩(暗喩・メタファー)です。
隠喩には直喩から大きく隔たった比喩として、
意味もイメージも異なったもの、あるいはまったく次元を移したものに変容することになるのです。
また直喩が説明的で、対象を限定してしまうのに対し、
隠喩のほうが聞きてや読者の想像力を刺激し、イメージを広げさせてくれるものです。
ですからイエスが語る隠喩を前にして、我々の想像力やイメージを膨らませて聞き取ることになるのです。

そこに説教者のキャリヤとか個性が顕れてくるのではないでしょうか。
今日、私自身の想像力やイメージでもってこの隠喩を読み解いてみましょう。

イエスが火を投げ込むために来られた!
イエス自身が火を投げ込む!
その投げ込む場面を見てみましょう。

二週間前の「良いサマリア人」の場面では
 ルカ10:26「律法には何と書いてあるか。
           あなたはそれをどう読んでいるか

    10:36 「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。
           イエスは言われた。
           「行って、あなたも同じようにしなさい。」


イエスからの真摯な問いかけ。
その問いかけが投げ入れる火になっているのではないでしょうか。

 マルコ9:23 イエスは言われた。
           「『できれば』と言うか。
             信じる者には何でもできる。」


     9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。
           「信じます。
             信仰のないわたしをお助けください。」


 文語訳父「されど、汝なにか為し得ば、我らを憐れみて助け給へ」
         イエスい言ひたもふ
          「為し得ばと言ふか。
             信ずる者には、凡ての事なし得らるるなり」
         その子の父、ただちに叫びて言ふ
          「われ信ず、信仰なき我を助けたまへ」

 「信仰なき」→「不信仰」


 【口語訳】マルコ9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、
                「信じます。
                  不信仰なわたしを
、お助けください。


 【新改訳改訂第3版】マルコ9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。
                       「信じます。
                         不信仰な私をお助けください。


 【NKJV】9:24 Immediately the father of the child cried out and said with tears,
               "Lord, I believe; help my unbelief!"

 【TEV】9:24 The father at once cried out,
              "I do have faith,but not enough. Help me have more!"

 田川訳「信じます。
        私の不信をお助け下さい。」
          「助けてください。


この文脈では息子を助けてくださいとは言ってなくて、
「信じます」とは言ったものの、その「信じます」には息子を救う保証にはならない「信じます」でしかない。
父親はわかっているのです。
だからそんな私を「助けてください」と叫んだのです。

此の父親の信仰告白が示す逆説性の中に信仰の奥義があるのではないでしょうか!
イエスの問いかけは、火を投じているのです。
我々はただ、イエスの問いかけに「然り!アーメン」と応えるばかりであります。

この世の人生の残り少なくなってきた者の実感の中では
「自分の身の上のすべてに、然り!アーメン」と言うほかはないような気がしています。
それが幸いな命であると信じております。

 「ヨハネの子シモンよ、汝この者どもに勝りて我を愛するか」ヨハネ21:15

福音書においては、「信じるか」「愛するか」はキリスト教信仰の核心への招きであります。
それだけに、自分に問われるならば、
「信じている」とか「愛している」と断言するには自分自身の中に確信して担保(保証)するものがない!
と良心的には感じてしまうものです。
言葉で断言してしまうには、不十分さと虚偽性を感じて罪悪感が伴い良心に責められるものであります。
だからそうした私を「助けてください」の叫ぶのです。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」マルコ8:29、ルカ9:20、マタイ16:15

イエスが投ずる火は、我々に決断を迫る火なのです。
私自身も終わりの時には「信じます!信なき我を助けてください!」と叫ぶことでしょう。

「憐れみ給え、主よ、アーメン(あわれみたまえ、しゅよ、アーメン)」

過去の音声メッセージに戻る