≪メッセージの要旨≫  2019年   8月 4日   聖霊降臨後第8主日     


        
聖書 : ルカによる福音書       11章  1〜13節

        
説教 :  『 祈ることを教えたまえ 』   木下 海龍 牧師 


 我々は「祈り」を全然知らないわけではない。
しかしわれわれは時に祈りをもっと深く学びたいと願っております。
われわれが「信仰」の旅路を歩んでいるとき、それは同時に「祈り」を積み重ねている人生の旅路だとも言えましょう。

ルカによる福音書11章1節で、弟子たちが
「主よ、わたしたちにも祈りを教えて下さい」
と願い出ているが、弟子たちは当時のイスラエル共同体の中で「祈り」が全く分らなかったわけではない。
彼らは充分に見聞きし、長老や父親から教えられ、また見よう見真似で「祈り」を経験していたはずである。
しかしある時、「主よ、わたしたちにも祈りを教えて下さい」と願い出る。
その願いの背後には、弟子としてイエスに従い始めた彼らのさまざまな思いや願いがあったに違いありません。
弟子としての精進が飛躍的に伸展するようにとか、主イエスの御心に沿って生きるにはとか、
更に主が見つめている射程が掴めないとか、
主イエスのように神の領域をリアルに感じてその境界に立つにはどうしたら到達するのかとか。
主イエスは神を見ておられるようだが自分達にも見えるようになるにはどうすべきなのかとか。
こうした求道的な問いや願いが背後にあって、祈っておられる主イエスのお姿に触発されて、
「主よ、わたしたちにも祈りを教えて下さい」
との願いが出されたと推察されます。
こうしてルカによる福音書においては、
弟子が願い出たのに、応えて主イエスがこの「主の祈り」を教えてくださったのです。
(今日われわれが自分の矮小的で閉塞的なキリスト者の生活から抜け出るにはどう言う脱出路があるのか。
   さらに現実的苦悩と悪しき力に対決する時の力不足を痛感して、「祈り」の座に着く状況のようではないでしょうか。)

一般的に「祈り」は文言、言葉が大事です。
心の中で祈るにせよ、言葉を発するにせよ、言葉によってなされます。
だからその文言は重要です。
それでも祈りが「祈り」として成り立ってゆくためには文言さえ言えばいいのか。
信仰と信頼とその人が置かれた場、どういう場と状況の中で祈っているのか。
それによって大いに違ってゆくでしょう。

イエスは「主の祈り」を教えるのですが、文言自体とその順序も重要です。
先ず初めの呼びかけは「父よ、(アバ)」 です。
「父よ」から入れ!と教えます。
これは重要だからです。
この場合の「父よ」は「アバ、おとうちゃん、」という幼児語なのです。
現在の日本の幼児の多くが「パパ、まま」といって親に甘え信頼して寄ってくる、
その言葉をイエスはこの祈りの冒頭の呼びかけに使うのです。
しかも大人である弟子達に神への呼びかけとして使わせてるのです。
でもここでは決して幼児語を薦めているとは思えません。
単純に小さい子どもが使う言葉をわれわれが真似て使えば良い、と言うだけの問題ではないでしょう。
「お父さん、父さん、パパ」と本当にはずかしさも、てらいもなく発語していた幼児の時代が私共にはありました。

 エリック・バーンの人間行動理論「交流分析」の入門書などを読みますと、われわれは皆、
幼児期、少年期、青年期を内側に年輪のようにそのまま内側に抱えて大人の役割を演じている、と述べております。
だから諺の 「子どもは大人ではないけれども、大人は皆子ども」 は納得できますね。
それらの特徴的な人格が統合されていたり、抑圧されたり、場違いに出て来たりする事があると説明されております。

イエスは「祈り」の最初に「父よ、(アバ)」と自然に呼びかけさせております。
「アバ」から、即ちそこから入れ!と。
私自身の求道中の鮮明な記憶の一つに、神様に向かって「父よ、天のお父様」とはなかなか言えなかったことです。
照れくさいと言うか、何か生身のオヤジのことを思い出す。
なんか素直に祈れなかったことを思い出します。
でもここで主は
 「父よ、(アバ)」 と祈れ!そこが入り口だ! 
    あなたがどんなに偉い地位に着いていたとしても、どんなに立派な家柄の中で育ったとしても、
    名誉を沢山持っていたとしても、学問的業績があったとしても、
    またその逆だとしても「おとうちゃん」と言うあの場から神に向かえ! 
そう教えていると思います。
これは洋の東西を問わず、求道の入り口として教えていると思います。
福井県・曹洞宗総本山永平寺でビジターとして坐ったことがあるのですが、
打ち仰ぐ立派な山門があり、その山門中央の二本の柱の聯(れん)に以下の言葉が書いてありました。
   家庭厳峻、陸老の真門より入るを容さず
   鎖鑰放閑、さもあらばあれ 
   善財の一歩を進め来るに。
意訳
 「この永平寺の家風は誠に厳しいから、
    たとえ 陸老大夫のような立派な人がやってきても、そうやすやすと中には入れない。
    だが、ごらんの通り鎖もなければ扉もない。
    だから、善財童子のように、真に仏道を求めようとするものには、
    この門はいつでも開け放たれている。」(中略)
主イエスはおっしゃる。
神に出会うためには、まず「父よ。(アバ)」と言う入り口から入れ!と。
「父よ。」と呼びかけるときに、
既に神はあなた方にとって、父なる神として親子の関係をそこに創出してわれわれに出会いたもうのであります。

私は芝居にも関心があります。
芝居が上演までに仕上がって行く過程で、ある女優さんが短いセリフを何回も言わされる事があります。
それが幾日も続いてダメが出される事も珍しくありません。
その一言がその場面を創りだす重みがあるからです。
その女優さんは芝居全体のストーリを貫いた構成の中で、発すべき短い言葉に全存在を乗せて観衆に届けるのです。
言葉の意味と共に生み出された音声そのものが持つメッセージが伝わるのです。

われわれは「父よ。」と祈る時、それは入り口であり、初関であるけれど、
本当に一日一回「父よ。」と「主の祈り」をして、一年で365回、10年では3,650回になるのですが、
それくらいで上手く言えるかどうか分りませんが。
われわれは心底神に向かって「父よ。」その時当然、父と子の関係が立ち上がってきて現成するような、あの「父よ」。
そこから入れ! とイエスはおっしゃっている。
そこで私共は神様と真実の親子の関係に入って行くわけです。

父神にまつわる権威主義の汚染によって、神の前にあえて装おうとする世の大人の傾向に逆らって、
裸のままで神様の前に飛び出してくる幼児の如くに、神の前での自由を回復する「祈り」の入り口を教示しているのです。
イエスは語る
 「私の祈る姿から学ぶのであるならば幼子の率直さと、信頼と自由さから先ず祈りに入るべし」 と。 
アーメン!

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