≪メッセージの要旨≫  2019年   9月 1日   聖霊降臨後第12主日     


        
聖書 : エレミヤ書         9章 22〜23節
             ヘブル人への手紙    13章  1〜 8節
             ルカによる福音書     13章 22〜30節

        
説教 :  『 今、謙譲は虚しいか 』   木下 海龍牧師 


ここのところ、日本政府と韓国政府の関係が厳しく、険悪な状態になってきており、心配しております。
市民の感覚にはかかわらずに、二つの政府がもめており、
その悪い影響が市民の感情にも影響を及ぼすことを心配しております。
さらに穿った考え方をすれば、
韓国との緊張関係を煽っておいて国内の重要課題をスル―させようとしているかも、と思ったりします。
こうした状況の中で、
今日のルカ福音書からはテーブルマナーとしてではなく、メタファー(隠喩)として考えたいと思いました。

この状況を心配して、8月15日には、
★「8・15日韓聖公会共同宣言」
  ― 「キリストの平和」を作り出す北東アジアのクリスチャンとして―   
        大韓聖公会会議議長 モーセ   兪 楽濬(ユ ラクジュン)
        日本聖公会首座主教 ナタナエル 植松 誠
同じく、
★カトリック正義と平和協議会が
  「日韓政府関係の和解に向けての会長談話」会長 勝谷太治司教
   A4−3頁を出しました。

★外キ協 「日本・在日教会共同声明」 を発表 
  “韓国のキリスト者・市民社会と建設的対話”続ける。
   2019年8月15日  A4−4頁 を出しました。 (日本福音ルーテル教会はこれの構成員)

私の個人的な感覚として思っていることは、
日本が北東アジアのリーダであろうとするならば、もっと上手な外交を行うべきではないか。
上手にとは、外交には相手があることですので、
その相手を先ず尊重し、相手の尊厳を大切に思いながら対話と対応を進めなければ、
無駄な時間が流れ、お互いに傷を負うことになるだけだと思っております。
私の立場は殊に国際間では「真理よりも平和を!」であることに変わりはありません。
個人的倫理問題としての宗教的真理性は、その個人が困難な人生の中でも、
しっかりと生きてゆく上での支えの基礎になるものですので信仰内容はとても大切です。
他方では個人的にも国家間でも相手が存在します。
その場合には、両者がその価値観に於いて一致がない場合でも、
まず第一には平和裏に双方が存在できる道を模索し選択すべきだと信じております。
そうでないならば、膨大な犠牲者が出ることになるのです。

第二次世界大戦では、全世界が巻き込まれて、912万3000人の兵士が亡くなりました。
日本は兵士が230万人、市民は80万人亡くなりました。
アメリカは日本に勝利しましたが、軍人の戦死者は29万人もあったのです。
戦勝国でさえそうした犠牲を出すのが戦争なのです。

先ず平和への道を! 選び取って、その道を探し求めて行くべきです。
新約聖書では「平和」についての言葉は78カ所ございます。
この多さから推察して、
イエスとその弟子の時代も庶民が平和に生きて行けることへの渇望がとても強かったと分かります。
福音書18カ所、使徒言行録3カ所、ロマ11カ所、コリント前後5カ所、エペソ7カ所、テモテとペテロ各5カ所、
他の書でも一か所は必ず使われております。

マタイ5:9 平和を実現する人々は、幸いである、
           その人たちは神の子と呼ばれる。

ローマ5:1  このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、
           わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

ローマ8:6  肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
ローマ12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
(田川訳12:18)「できることなら、
             (つまり)あなた側のから(発すること)の場合は、すべての人と平和でありなさい。


フィリピ2章3〜11節
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、
      互いに相手を自分よりも優れた者と考え、

2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。
      それはキリスト・イエスにもみられるものです。

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
      人間の姿で現れ、

2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

謙譲が虚しいのであれば、
十字架にまで至ったイエスの贖罪は我々にとって虚しいものとして空回りするに至るでしょう。
イエスの時代でも十字架までのへりくだりは全く評価されてはいませんでした。
外見的、政治的には敗北の姿としてのイエスの死でありました。
そのイエスの死後、50年から80年を経て、イエスの死に至るまでの謙遜、へりくだりは
救いと平和をもたらす人類への無償の贈与としての贖罪行為であったのだと
熱く受け止められるにいったのです。
そうした受けとめと主の復活が弟子たちを支えて、
ユダヤ教徒や、ローマ帝国の為政者からの迫害の最中にありながら、
神を賛美し、人を愛し、平和を追い求めていったのでした。
こうした地盤に立った謙譲は敗北ではなく、妥協でもなく、
絶対的な神を信じる確信と復活の喜びがなせる神様への聴従であったのです。
だからパウロは
 「あなた側のから行動を起こす場合は、すべての人と平和でありなさい」
と、勧めておられるのです。

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