≪メッセージの要旨≫  2019年   9月 15日   聖霊降臨後第14主日     


        
聖書 : ルカによる福音書     15章  1〜10節

        
説教 :  『 失ったものを手にする喜び 』   木下 海龍 牧師 


15章3節 「イエスは次のたとえ(譬)を話された。
この譬えを話す動機、それは
 1―2節 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
        すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、
        「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした、からです。

ユダヤ社会では食事をすることは、礼拝行為に次いで聖なる行為として捉えていたので、
礼拝の場に参加できない徴税人やシナゴーグ礼拝にも来れない人たちと宗教行為に準ずる食事をしているのは
リーダたるべき教師としてはおかしい、間違っているのではないかと抗議をしたのです。
そこでイエスは三つの譬え(1節〜32節)を話したのです。
今日の日課としては最初の二つの譬えが読まれました。

此の失われた三つの譬えは、あるべき所から離れた状態に至る経緯には違いがあります。
最初の迷いでた羊は自分の無知と経験のなさが原因、次は所有保護管理者の不注意によるもの
三つめは本人の積極的な独り立ちしたい欲求と離反が原因によると思われます。
羊飼いや、銀貨を落としてしまった女性、放蕩息子の父親、
この三者の共通点は原因はいろいろとあるにしても、
失ったものを最後まで探し求め傍らへの帰還を待ち続けていることです。
これは神の姿であり、神の心であるのだとイエスは語っているのです。
ここでは、イエスは徴税人や罪びとは神の前から失われた人々であり、
それゆえに神からは探し求めて止まない人々である故にわたしイエスは彼ら探し出して、
招いて宗教的行為である食事を共にしているのだと表明しているのです。
さらに深堀すれば、不平と批判を表明しているファリサイ派の人や律法学者もまた神の御心から逸脱し、
父の心根が分からない放蕩息子の兄の姿にあたると言えましょう。
だとすれば批判している彼らもまた神の心から離反した存在だと言えましょう。

次に、もっと広い視野からこのメタファーを見てみましょう。
@ 生きる上で必要なものが自分の手の内から全く見失う状態からの回復
A 虚しいものを追い求めている状態から立ち返って真実の交わりへと招かれて入る人達
B グレイトサムスイグ(創造主)から託されていたものを思い出し再認識すること。
  即ち自分のこの世における存在理由への開眼に至る道

工藤直子詩集『あ・い・た・く・て』 より
  あいたくて
       だれかに あいたくて
      なにかに あいたくて
      生まれてきたー
      そんな気がするのだけれど

      それが だれなのか なになのか
      あえるのは いつなのかー
      おつかいの とちゅうで
      迷ってしまった子どもみたい
      とほうに くれている

      それでも 手のなかに
      みえないことづけを
      にぎりしめているような気がするから
      それを手わたさなくちゃ
      だから        あいたくて
      
                  
私の今日の呼びかけは 
 「あなたがウシナッタものは何ですか!
  忘れてしまっているのは何ですか!
  生まれて来た時にその手に握っていたものは何ですか」

 「月冴えて松黒ぐろと立ちませば前世の修練引継ぎ修めん」 (悟った後の修練の世界、境涯)
 「私は、既にそれを得たと言うわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。
    何とかして捕えようと努めているのです。
    自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。
」 フィリピ3:12−15

今日、私が言いたいのは、人類史的な生命の流れの中で、
我々は各自の遺伝的DNAの中に自分に託せられた何かを握って生まれて来ているのではないのか。
そのことを詩人の工藤直子は「あいたくて」の詩の中で言おうとしたいのではないのか。

誤解を恐れず言うならば、
我々は自分の過去生とか前世とかを抱えて生きているのではないか。
普段は失念しているのだが、そこに神からの託されたものがあるのではないか。
それに気づかない間は工藤直子さんが詩人の直観で表している気持を人は抱いているのではないのか。
人が真に自分は神の恵みによって救われたのだ!と確信するに至ると、
実はこの自分への託宣を思い起こしたことではないか。
各人の個別的な特徴がある領域ですから各自が祈りの中で確信しましょう。

関連する聖書の箇所を紹介します
エフェソ1:4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、
          御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

  1:5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
  1:6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

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