≪メッセージの要旨≫ 2020年 1月 19日 顕現後第2主日
聖書 : ヨハネによる福音書 1章 29〜42節
説教 : 『 見よ、これぞ神の子羊だ 』 木下 海龍 牧師
去る1月9日(木)午後、十字式健康普及会日暮里会場を出て、
日暮里駅から西側の坂を上ったすぐ右側にある「本行寺」の墓地を訪ねました。
奥が深く沢山の墓碑が整然とある中で、
6割方眺めた墓碑の内で印象的な二つのお墓について感じたことを話したいと思います。
@ 染井家之墓 綺麗な生花に緑の松も一緒に活けられて在りました。
それに加えて、二段重ねの餅に金柑が乗せた飾りの正月餅があり、
十五センチ程のウルトラマン人形とその足もとには悪役の怪獣一体が置いてありました。
さらにミニチュアのパトカーが一台と
ウルトラマンごっこで遊んでいる三人の子供が描かれたカップ一つが置かれてありました。
一番下の段には「おーいお茶」のボトル一本、蜜柑ジュウス一本、さらに、サンガリア泡立ち飲料
「こどもののみもの、カルシュウム・ビタミンC、りんごエキス使用」 と書かれている飲み物、
計三本が栓を緩めた状態にして供えられてありました。
「おおー!! 賑やかで可愛い正月参りがあったのだなあ!」と墓誌を見ましたところ
「優心院清秀童子 平成十年二月二十日 俗名 秀介 行年四才」 とありました。
他の故人の表記は未だありませんでした。
すると此の童子は亡くなってから既に22年が経過しており、存命ならば26歳になるお方でしょう。
今年の正月の墓参りの供物を見る限りでは、個人はいまだに幼い童子のままであり、
供物の内容は幼稚園入園当時の子供向きの供物でありました。
さらに蘇東坡の8本にはすべてこの子の戒名が書かれていて、
春と秋のお彼岸に備えられたものでしたのでここ四年分の蘇東坡だと思いました。
墓のたたずまいからは、
つい最近に、この子は亡くなったような印象を受けてもおかしくないきれいな供物でありました。
4歳の可愛い盛りに亡くしたこの子の両親の極まりない哀切感が今もなお感じられる思いでした。
悲しみは消えることなく両親とその家族は抱えているのだと感ぜざるを得ませんでした。
A もう一つの墓には生花が松と一緒に生き生きと活けてありました。
他に各種の色鮮やかな十数本の花は白い桶に残されたままに脇に置かれてあり、
墓石は濡れたままであったので今さきまでお参りがあったと伺えました。
全体的にとてもユニークな形状であって、大変にお洒落な感じで、曲線が生かされ、
手で撫でて成形した黒曜石のような墓石が目に留まり、忘れがたい印象を受けました。
墓碑には「我が生涯に 一片の悔い無し」と達筆に彫られてありました!!
「すごいなあ!!
自分は85歳まで生ききて、わが生涯に一片の悔い無し。と言えるかなあ」と思いました。
あの時の選択はあれでよかったのか? と思うことはあるかもなあ?!と。
墓誌には、純心院法義日隆信士 平成二十年五月九日 俗名 井本義隆 行年三十五才とありました。
「三十五才か!若いなあ!! イエスさまと同じ位だなあ!!」と思いました。
さらに墓碑の脇には、平成二十三年十二月 井本和子 建之 とありました。
「亡くなって満三年が経過した後に、この女性はこの墓碑を建てたのだなあ!!」と。
三年間の構想を経てこの容にしたのでしょう。
「我が生涯に 一片の悔い無し」の言葉は、故人が逝く前に遺した言葉なのか。
あるいはこの女性が亡くなった方の残した言葉の中から自分自身の選択枝として選び採った言葉なのだろうか。
この言葉から感じ取れる一つは、
もう少し生き伸びる可能性と創造的活動をする可能性を抱きつつも
中断せざるを得ない過酷な現実を眼前にして、
逝かせまいと願う者を慰める為に故人が表明した言葉ではなかったのか、と。
さらに、この墓石の施主が奥様だとしたら、
先に逝った夫との共同作品として、この墓石をこの世に残してゆきたいと願ったのではなかろうか、と。
いずれにせよ二つの墓石を前にした私には、故人を思う深い愛に満ちた思慕は、
それぞれが22年と12年が経過しているにもかかわらず全く褪せることなく熱く生き生と伝わって参りました。
一つの事件を目撃した体験となりました。
さて、
「見よ、これぞ神の小羊だ」とバプテスマのヨハネは近づいてくるイエスを指さして、二人の弟子たちに言った。
弟子たちの視線を向けさせる為に人差し指をまっすぐに伸ばして、
歩いておられるイエスを指し示したに違いありません。
それだからこそ二人の弟子はイエスの後をついて行ったのです。
この箇所がバプテスマのヨハネの最大の役割であったと言えましょう。
二人の弟子の一人はシモンの兄弟アンデレでした。
その後アンデレは兄シモンをイエスのところに連れて行ったのです。
イエスはシモンにケファ岩=ペテロと名付けたのです。
ヨハネ福音書は1章において五人の弟子召命を明記します。
アンデレ、シモンペテロ、フィリポ、ナタナエルです。
それにアンデレと一緒に行ったもう一人の弟子です。
「神の子羊」に仕え、教えを受け、証言する最初の弟子たちです。
「見よ、これぞ神の小羊だ」
この宣言がヨハネ福音書の中心主題であります。
「神の子羊」とは古来からのイスラエル民族にとって、民の罪の身代わりに捧げられ、
祭壇で切り裂かれて血を流す供物であったのです。
十字架上で処刑されたイエスこそは「神の子羊」であったのだ!!
と、この言葉は強烈に証している詞です。
イスラエルの民に向かって、さらにイエスを処刑に至らせた当時の指導者層に向かって強烈に批判し、
主張してやまない思いが込められている詞です。
それには、ヨハネ福音書が現在の形に纏められたのは、70年の神殿崩壊後に
最高会議のサンヘドリンに代わる(ラビ的・ファリサイ派が中心になって)90年に創設されたヤムニア会議の
指導者層によってシナゴーグからイエスを信じる人々が完全に追放された直後であったと考えられます。
紀元97年から105年位の間であったでしょう。
イエスの兄弟ヤコブは
正統的なユダヤ教の中の一つのセクトとしてエルサレムのユダヤ教の中で残る努力を尽くしたのですが、
イエスをメシアとして信じている信仰集団はイエスの復活を信じている事、
さらにギリシャ語翻訳の聖書を使っている事などが異端として追放される大きな理由でありました。
イエスが処刑されて70年が経過してはいましたが、
信ずる内容の違いからの差別と偏見を受けながらも十字架と復活を証言していたヨハネ教会にとっては、
イエスの磔刑はつい昨日の出来事のごとくに鮮烈な出来事であったのです。
迫害がおこれば起こるほどに、
朝ごとにイエスの死を覚える礼拝と復活の喜びの聖餐式を執り行い、
持ち物を分け合って助け合い、日々を過ごした人々にとっては、
十字架の死と復活の出来事は直近の出来事として忘れられない身に刻まれた事件であったのです。
イエスの教えと遺言に従って生きる信仰を選択した初期教会にとっては、
一点の悔も入り込まない生き方の選びであったのです。
それがまた初代教会を強く熱い団結へと至らせて、
300年近い根強い信仰告白を経て、紀元313年の寛容令(キリスト教の公認)にまで繋がって行ったのです。
さらに、今の我々の日本福音ルーテル教会にまで繋がってきているのであり、
富士教会もまた次の世代へと繋げて行く過程にあると言えましょう。
われわれの「神の子羊」が、
贖罪の子羊として、時にはライオンの力を持った「神の子羊」として我々を導き守ってくださることに
2,000年の視座から見ても何の疑いも起こりえません。
アーメン。