≪メッセージの要旨≫  2020年   1月 5日   主の顕現     


        
聖書 : イザヤ書         60章  1〜 6節
             マタイによる福音書    2章  1〜12節

        
説教 :  『 我も往きて拝せん 』    木下 海龍 牧師


イエス・キリストが誕生してから2020年に入った
最初の礼拝を皆さんと共に主に招かれていることを喜び感謝しております!
クロノロジー(過去の出来事を年代順に並べたもの。年表。また、年代記)の時の流れの中で生きながら
同時にカイロス(機会チャンス、刻むを意味、自分の人生に刻まれた意味のある時刻)の中で
私どもは生活を営んできております。
過去から未来へと一定の速度で流れゆく時の中で、自分にとって意味のあるカイロスの時を刻んでまいりましょう。

宇宙の全歴史を1年だと仮定して考えると
宇宙の始まり→  1月 1日
銀河の誕生 →  1月11日
地球の誕生 →  8月31日

人類の誕生 → 12月31日20時48分
キリストの誕生→12月31日23時59分56秒

われわれ一人ひとりは創造主の瞬きの中で、この時代に生まれ、大事な人と出会わせてくださった
・・・さらに教会へと導かれたと考えますとおろそかには出来ない思いがいたします。
何故我々は存在しているのか!?
宇宙はなぜ誕生し、今も存続するのか!?
11次元の世界とは!?? (一次元 綱渡りの線、二次元、三次元、四次元、十次元(異次元の存在)
しかしながら同時に「大空の塵とはいかで思うべき熱き血潮の流るるものを」与謝野鉄幹

ムハンマドが生まれる600年前に
東の国(現在のイスラム教が主流である中近東地方)から天文学者が
宇宙と生命誕生の神秘探求の探求途上で上がってくる星の啓示で示された幼子を礼拝するために
長い旅をして到達したのです。

 御子イエスが生まれたということは、
わたし自身が重要であると考えている「今日と明日」をどう生きればよいかという課題ばかりではなく、
もっと大きな! 天文的な動きの中で、
すなわち天体運行さえもが証しし、御子の顕現の印となるほどの出来事であるのです。
地球の誕生や生命の誕生、人類の誕生に深くかかわっている
創造主の意思に直結した事柄であると表しているのです。

マタイ2:2
  「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
      わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。

 これを聞いてヘロデ王は不安を抱いた。
それはヘロデ王が描いた
自分の将来と政治政策とは違った政治路線がひかれてゆくことへの不安だったのではないでしょうか。
人は自分が感知できない領域からの干渉というか世界史への参入に対して不安を抱くのではないでしょうか。
自分がどのように対応したらよいのかは皆目予想がつかないからではないでしょうか。
自分たちの勝利、自国の国益、人間の利益、自分の所有領域の拡大〜
こうした傾向にばかり嗜好し獲得に奔走してきた人たちにとっては、
神からの施作、神の側の要求、神の御心から選択する実践の決定には何をしたらよいのか
不安を抱くのは至極当然な成り行きであったことだと思われます。

拝みに来たのです。(ひれ伏す)=イエスに真の礼拝をささげる。との意味で使われています。
賢者・天文学者=イザヤ60章6節
 「 らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。
     シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。
     こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。

メシアが現れる日に
異邦の諸国の王・賢者が高価な贈り物を携えてエルサレムに上り、メシアを拝して敬意を表すとの予言が、
東方の博士の御子イエスへの礼拝によって成就したと言えましょう。

 いずれにしても、
遠路をはるばる来て、ヤコブの星であるメシアにひれ伏して礼拝した博士たちの熱意が、
メシアがどこに生まれるかを知ってはいても、
真に礼拝しようとはしないヘロデや律法学者のかたくなな心と比較してマタイは述べているのです。
メシアを一番よく知ったつもりの人がメシアから最も遠い人々だったのです。

 真に礼拝する群れの教会こそが偉大な真の教会と言えましょう。
ダビデの街ベツレヘムは人口調査のために一時的に移動せざるを得なかった場所です。
しかも宿屋には彼らの泊まる場所はなく、生まれたイエスを布にくるんで飼い葉桶に寝かせた、とあります。
博士たちが礼拝をささげた場所には飼い葉桶に寝かされたイエスと
その傍にはマリアとヨセフ、そしておそらく三人の博士たちと供のもの数人がいただけでありましょう。
しかもそこで最初の教会の真の礼拝が行われました。
それが教会の礼拝の原点です。
だとするならば、信徒の数や教会予算の額によって
即それが偉大な教会であり即「真の教会」と言われるものではないでしょう。
神がご覧になって、我々富士教会の礼拝が真に礼拝している教会であると見られたいものです。

謙虚なイエス・キリストさまが中心におられ、
それに仕える役割の数人が誠実に、信仰をもって礼拝している。
そこが真の礼拝であるでしょう。
そしてその場を整えて維持する信徒の数人がおられるならば教会は存在するのです。
アーメン。

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