≪メッセージの要旨≫  2020年  10月 18日   聖霊降臨後第20主日

        
聖書 : イザヤ書            45章  1〜 7節
             詩篇               96編  1〜13節
             テサロニケの信徒への手紙T  1章  1〜10節
             マタイによる福音書       22章 15〜22節

        
説教 :  『 世の秩序と神への信仰 』   木下 海龍 牧師 
          
          教団讃美歌 :  326、271下、 512、 301


マタイ 22:15 「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、
         どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
    22:16 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。
         『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、
          真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。
          人々を分け隔てなさらないからです。
    22:17 ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。
         皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。』


イエスはこの罠を見抜いていた。
当時、国論は二つに分裂していました。
それはローマ皇帝に税を納めるかどうかで激しい論議の最中にあったのです。
ローマへの協力(税を納める事)と引き換えにローマ総督側からの支持を期待していたヘロデ支持者がおり、
他方には外国支配を力ずくで排除しようと試みる熱心党もいました。
ファリサイ派は心情的には熱心党に近く、納税には消極的でありましたが、
ローマの支配の現実は無視できずに、納税に応ずるほかはありませんでした。
ただいずれにしても、この納税問題を使えばイエスを罠に陥れるのは簡単であると考えたのです。
納税を肯定すれば、民衆の支持を冷やすことができるし、否定すれば、ローマに訴える口実に出来るからです。
イエスは彼らに対する反論手法として彼らの生活態度から切り込みました。

ヘロデ党の人々の日常生活は、この世の利害を最優先して営まれていたのでした。
それですから流通貨幣にローマ皇帝の像が刻まれていても全く意に介せずに経済活動をしておりました。
それにもかかわらず、納税が問題になる時に限り、信仰を持ち出しておりました。
貨幣にローマ皇帝の像が鋳込まれてあるのはローマによる国家支配下にあることを表しており、
さらに皇帝の肖像は偶像崇拝に当たるのであると主張していたからです。  そこで、
イエスが当時人頭税にも使われていたデナリ銀貨を持ってこさせたのは、
彼らに自分たちが日常的にこの銀貨を使っていることを思い起こさせるためでした。
イエスが彼らを偽善者と呼んだのは。彼らのそうした日常を知っていたからであります。
イエスはデナリ銀貨に刻まれた像がローマ皇帝であるのを彼らに確認させてから、
 「では皇帝のものは皇帝に」 と答えたのです。
これは皮肉と言えましょう。
日常の営みはローマ皇帝の像などお構いなしに生活しているのに、
税を納める時になると敬虔な振りをするのはなぜなのだ!!と。
いつもその貨幣を使っているように、気にせずに税をおさめればよいではないか。
それがお前たちの本性に似合っているではないか!と。 そんな罠にはかからないよ!!と。
しかもイエスはそれで終わらずに 「神のものは神に」 と付け加えました。
この言葉にイエスの言いたい真の狙いがあったのです。
デナリ銀貨に皇帝の像と銘が刻まれているように、お前たち自身にも像と銘が刻まれているのだと。
人は神のカタチにかたどって造られたとあるではないか。(創世記1:26).
人の心に神の言葉が刻みこまれてあるではないか。(エレミヤ31:33) 
そうであるから、神のものであるお前たちは神のものとなり神の御心に従うべきではないのか。
偽善者であってはならない、と。

 現代の様に複雑で多様な価値観が行き交う時代に在っては、
政治と宗教の境界線を単純に決めるのは不可能であります。
しかしながら、我々の中心には神を据えておくべきなのです。
すでに銀貨よりも明確に神の刻印が押されているのですから。

 ここでイエスによる彼らの二面性に対する痛烈な批判に喝采するだけではなく、
我々自身の事柄として、イエスの見抜く力を我々自身が受け取ることが重要であるのです。

 ヨハネ3章1−21においてイエスとニコデモとの対話の中心主題である
 「霊から生まれた者は霊である」 と言った視座からさらに掘り下げなければ、
我々信仰者への問いかけにはならずに終える危険があります。

マタイ15:8 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている
        (イザヤ29:13、詩編78:36,37 エゼキエル33:31)
マタイ5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る
心が ・「清い、澄んでいる」→濁っていない、他のモノが混じりこんでいない状態。
ひたすら神に向かって意識が注がれている状態である。

・その結果として 「神を見る、神にまみえる」 に至る。 いわゆる神の領域に招かれ・入って行くのです。

文語訳詩編46:10「汝等しづまりて我の神たるをしれ、
【新共同訳】詩46:11 「力を捨てよ、知れ/わたしは神。
マルコ9;24 その子の父親はすぐに叫んだ。 「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

聖書が問題にしているのは、誰もが口先だけで、「信じます」と言っている可能性が大きいと言うことです。

この父親は「信じます」と叫んだ瞬間、言ったその言葉の虚偽性に、
口先だけの、息子が癒される事の駆け引きの不純性から、「信じます」と言ってしまったのだと自認したのです。
だから尽かさず「助けたまえ!」と叫んだのです。
「信じます」と叫んだ瞬間、その叫びを保証する何ものも自分中にはないことを感得したのです。
だから思わず
 「イエス様貴方の真実(ピステス)を私に注いで、私の信仰(ピステス)が欠けている自分を助けてください!」
と懇願の叫びをあげたのです。
信仰が神の前で信仰として立ち上がるためには
イエス(神)の側からのピステスの注ぎ入れが不可欠だとこの父親は気づいたのです。

 私どもは多くの場面で言語世界のプロセスの中で生活しております。
心から言わなくても、さらに魂の奥底からでた言葉でなくても、話は通じてゆくのです。
言語媒介の知識や情報はそれでいいのですが、
こと「神様信じます」と言った領域ではその人の存在全体が投げ込まれる世界であります。
それですから
心の底の底からその人の全存在を支えているところから促された信仰告白であることが期待されているのです。
そこに於いては形式・仮名である言葉を保証する内実が問われているのです。
この父親の心底からの叫びに呼応してイエスは自らの真実(ピステス)によってその男の子を癒されたのです。

  憐れみたまえ、主よ。  アーメン。 

戻る