≪メッセージの要旨≫ 2020年 10月 4日 聖霊降臨後第18主日
聖書 : イザヤ書 5章 1〜 7節
詩篇 80編 8〜16節
フィリピの信徒への手紙 3章 4b〜14節
マタイによる福音書 21章 33〜46節
説教 : 『 高原の見晴らしを開く 』 木下 海龍 牧師
教団讃美歌 : 504、 365、 260下、 453
現代社会はどこに向かっているのでしょうか。
今日の33節から40節の譬えは一連の「神の国・天の國」について述べている箇所の一つなのですが、
これを一般的に解釈されてきた寓話として読むならば、
「ぶろう園」はイスラエルの民、「家の主人」は神様、「農夫たち」はイスラエルの宗教的な指導者、
「僕たち」は神が遣わした予言者、「息子」はメシアであるイエスと理解されてきました。
しかしながらこのような寓話的な解釈では 43節の
「 だから、言っておくが、
神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」
このイエスの言葉と衝突します。
「ぶどう園」がイスラエルの民とすると、
その「ぶどう園=「神の国」=イスラエルの民が別のそれにふさわしい実を結ぶ民に与えられる」
と解釈されることになるからです。
「あなたたち(宗教的指導者)」に対比して語られているイスラエル民族以外とは異邦人を指しますので
「ふさわしい実を結ぶ民族」に与えられるとの叙述は、イスラエルの民は異邦人の下に下げ渡される?!
その支配をうけるに至る、と読めてしまいます。
実際にその様に読みこんで教えてきた人たちもあったのです。
でもそれは聖書が言おうとした福音内容とは違うと思います。
呪われたイスラエルの民、罰を受けるユダヤ人と理解した一部の西欧教会は、
イスラエル民族のその後の長きにわたる苦難の歴史は神様が与えた罰のゆえであると短絡的に考え、
解釈した過ちの深さが問われるゆえんです。
そうした理解はマタイが伝えたい意図からは大きく乖離していることになります。
それでですから43節では、
「ぶどう園」=「イスラエルの民」だとする寓話的解釈との両者を切り離すのでなければ、
イエスがここで宣べた意味が通らないことになります。
このような不整合は、どうして起こったのでしょうか。
マタイ福音書が最終的に書き上げられたのは紀元80年代だと言われております。
すでに65年頃には出来ていたマルコ福音書を元にしながらマタイはさまざまな解釈を参考にし、
主の教訓集や伝承も継承しつつ、付加・訂正・解釈・適用が加えられていったと思われます。
マタイはマルコの並行記事(マルコ12:1−12)にかなりの訂正を加えておりますが、
中でも重要なのは34節の変更です。
マルコには「季節になったので」とあるのをマタイは「収穫の時が近づいたとき」に変えています。
この変更は譬えの内容から見れば、不自然です。
なぜなら、遣わされた僕は主人の取り分を受け取りに行くのですが、
「収穫の時が『近づいた』」に過ぎないのに、出かけるのは早すぎるからです。
それを知りながら、マタイはマルコのこの箇所を変更したのですから、そこにはマタイの意図があるはずです。
他にも二個所の変更を見ておきましょう。
41節後半の「季節ごとに収穫を納める(他の農夫)」はマルコにはない。
さらに、43節は節全体がマルコにはありません。
両節共に「実り、収穫」に触れていますし、時称は未来形であります。
34節、41節後半、43節の変更はいずれも近い将来の実りを視野に入れています。
此処でマタイの意図は
「近づいた」実り・収穫とはエルサレムでの十字架に「近づいた」イエスを指し示していると読みとれます。
さらに章の書き出しが「一行がエルサレムに『近づいて』」と始めていることからも推察できるでしょう。
マタイが変更を加えたのは、
近づいた収穫・実りのとき、つまりイエスに結び付けて、この譬えを読みこんだのです。
イエスは、家造りが役に立たないと捨てた石のように、祭司長・律法学者・長老に捨てられたのです。
登場する農夫たちは主人に収穫物を渡したくはない。
彼らが働くのは自分自身のためであって、主人のためではなく、自己欲望の充足だったのです。
労働とその実りを手に出来た背景には、
実は丹精込めてぶどう園を準備した主人の配慮によることを忘れてしまっています。
主人の配慮を忘れた労働はつまるところ本人にも実りをもたらさないものです。
マタイがマルコの書き記したイエスの譬えを読み直したように、今を生きる者として読み直してみたいと思います。
「ぶどう園は」は「球体のこの地球」、「家の主人」は創造主である神様、
「農夫たち」は「ホモ・サピエンス人類」、「僕たち」は「地球の危機と人類の滅亡を警告している人々」、
「息子」は「イエス・キリスト」である、と。
人類ホモ・サピエンスは緑の地球に生き続けながら、
40万年前になってようやく人類の幾つかの種が日常的に大きな獲物を狩り始めました。
ホモ・サピエンスの台頭に伴い、過去10万年前に初めて、人類は食物連鎖の頂点へと飛躍したのでした。
その後続けて大きな唯一の森である地球を自分たちホモ・サピエンスの発展のためにだけに使い果たしてきたのです。
それがいわゆる「ロジスティック曲線」が表している意味であります。
ある生物の種が一定の場所で限界に至るまで繁栄すると後は下降して滅んでゆくとの法則があり。
現在のホモサスペンスも頂点に到達して、1970年を尖鋭な折り返し点として、
それ以降は急速にかつ一貫して増殖率を低下している、と世界人口統計が示しております。
それが現代社会であると見田宗介はじめ多くの学者が指摘しているところであります。
これ以上に緑の地球・有限である森を食い荒らさずに、文明の恩恵を維持しながら人類も諸動物も植物も
相互に護り維持しながら生き延びていくためには何が必要であるのか、
何を手放し何を選択すべきなのかを論じ始めております。
長い時間をかけて創造主は生命の地球を整えて、ホモサスペンスにまでに至ったのだが、
ホモサスペンは自分の種だけの都合に合わせて地球生命体や資源を余すところなく使いきってきました。
今後、人類を含めて地球上のあらゆる生き物が
共存出来る生態系が守られる地球にしてゆくことが急務な施作であるとされて来ています。
人類の兄弟間だけではなく、
生物全体を包括した愛と尊重によって、助け合いの共存のシステムの構築が急がねばなりません。
もはや待てない時期に到達していると言われております。
緑の地球全体の保全は創造主から理性を授かった人の任務であります。
イエスが歩まれた十字架への道は愛と共存の道しるべを身を持て示されたのです。
「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」ルカ13:3
「 偽善者よ、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」ルカ12:56
「 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。
『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。
しかし今は、それがお前には見えない。』」ルカ19:41
現代社会はこのための実践の道を探り実行すべきでありましょう。
スエーデンの少女グレタさんが危機を感じて始めた行動は
世界各地で共感を呼び起こして行動が盛り上がっております。
その運動を支持して共に機会を見つけて行動しましょう。
参考書籍 : ユヴァル・ノア・ハラリ著 「サスペンス全史」上下、
雨宮 慧著 「主日の福音A年」、 見田宗介著 「現代社会はどこに向かうか」