≪メッセージの要旨≫  2020年  11月 1日   全聖徒の日

        
聖書 : マタイの黙示録      7章  9~17節
             詩篇            34編 2~11節、23節
             ヨハネの手紙Ⅰ      3章  1~ 3節
             マタイによる福音書    5章  1~12節

        
説教 :  『 ああ幸だ・・・・ 』     木下 海龍 牧師
             
          教会讃美歌 :  238、 371、 331、 266


 「山上の説教」を文語訳でもって朗読する。

 今回、この山上の説教を朗読して、沸き上がった私のパロディがある。
ああ幸いだ!! ラーメンをすすって美味い!と食べる者は
  己の今を生きようとする躍動感が溢れ授かるからだ!!
ああ幸いだ!!自分が今死ぬるはもっとも好い時だ思う者は、
  最年長者は自分よりも先に子や孫の死を願わないものだからだ!! 

マタイ福音の5章の「山上の説教」は新約聖書の教えの中の最高峰であります。
単なる道徳訓としてではなく、人間の根本的在り方の問題として読み取ってゆく御言葉であります。
この時のイエスの眼差に映る人はみな、貧しく、悲しみを抱え、踏みつけられてもじっと耐えていえる人びと、
正当な評価も扱い受けずにいる、それでも人には親切であろうとしている人、
身の回りの煩雑さにもかかわらず神様に向かって心を純粋に向けている、
迫害したりいじめてくる人とも仲良く許しあおうとしている人、
不利益な扱いを受けている人の側に立った為にのけ者にされて人がいる。
こうした人々はその難儀さにもかかわらず、おかれたところで生き抜こうと健気である。
そういう人々に神様の慈しみの眼差が注がれているのだ。
その未来には、本当のほんとうの将来には神様のご褒美と歓待が約束されているのだ。
だから落胆せず、うちしおれずに今を生きて行きてゆきましょう、と。
彼らと同じ生活をなさったイエスが彼らの肉体と魂に向かって発せられたみ言葉であります。

死者を巡る断章 
本日は今はなき人を偲び祈念する日曜日ですので死者について少し触れてみましょう。
「面影」について 杉沢 とみを 句集「富士に抱かれ」 2020年9月16日発行から
 ・面影を互いに求めビール乾す  p138
 ・薔薇園に面影求め再会す p169  ( 薔薇園を卒寿の母と巡りけり p189)

エルヴィン・ローデの小論文からの抜粋を紹介します。
「可視的人間(肉体とその中で働く生ける力)と、その内に宿るプシュケーPsyche はともに
その人間の「自己」と呼ぶことが出来るのである。
人間とはホメロス的に理解すれば、眼に見える姿と眼に見えない面影の二重構造から成っており、
両者は死んで始めて互いの依存性から解放されるのである。」

 この「プシュケーPsyche」をどう考えたらよいか。
それは生身の生の間はその存在に気付かれることはほとんどない。
「生身が消え失せて」初めて、それと認められる代物であると言えよう。
多くの民族言語において「魂」が名付けられる場合と同様、
「プシュケー」と言う名は生ける証しとしての「呼吸」の中にある「風のような・息のようなもの」を意味する。
それは体から抜け出ると、自由になって、今度は「面影」(エイドロン)と呼ばれるものとなる。
この亡き人の面影は肉体を持っていないので生者には把握できないが、
ときには或る特定の人には、かっての生きていたときの輪郭をはっきりと回復することがある。
だがこれ以上のことは、この影の如き映像からは何も知ることは出来ない。

 「プシュケーPsyche」は我々が肉体の対概念として「精神」と呼びならわしているものとは全く別物である。
しかし、その機能はすべて、人間が活きている間だけ働き、力を持つ。
ひとたび死がやってくると、全き人間はもはや存在しなくなる。

 人間はプシュケーPsycheがその内に留まる限り、生き、自らを意識し、精神的に活動できる。
むしろ生ける肉体とそのプシュケーPsycheが一体になっている間だけ、
あらゆる生命力と活動力が肉体の内に宿るのである。
人間とはホメロス的に理解すれば、眼に見える姿と眼に見えない面影の二重構造から成っており、
両者は死んで初めて互いから解き放たれるのである。
かれのプシュケーPsycheとはこの面影であって、それ以外の何ものでもない。

聖書を見て見ましょう。1テサロニケ5:23を参照
 「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。
   また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、
   わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。

23] Αὐτὸς δὲ ὁ θεὸς τῆς εἰρήνης ἁγιάσαι ὑμᾶς ὁλοτελεῖς, καὶ ὁλόκληρον ὑμῶν τὸ πν
εῦμα καὶ ἡ ψυχὴ καὶ τὸ σῶμα
ἀμέμπτως ἐν τῇ παρουσίᾳ τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χ
ριστοῦ τηρηθείη. 

 「平和の神御自身が・・あなた方のプネウマ(霊)もプシュケー(魂)もソーマ(体)も
   何一つ欠けたところのないものとして守り・・・。」
ここで聖書の人間理解にはプネウマ(霊)を加えて観ていると言うことです。
私どもの平和の神は我々が生ける時も死ぬるも全てにおいて、
欠けのない全く聖なる者にしてくださるようにと発願されておられて、
イエス様が再び来られるときには実現してくださいます・・と。語り教えてくださっています。

     憐れみたまえ、主よ。 アーメン。

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