≪メッセージの要旨≫  2020年  11月 15日   聖霊降臨後第24主日

        
聖書 : ゼファニヤ書       1章 7節、12~18節
             詩篇               90編 
             テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章  1~11節
             マタイによる福音書      25章 14~30節

        
説教 :  『 感謝して今を生きる 』   木下 海龍 牧師 
             
          教会讃美歌 :  170、 370、 386、 470


 自分は物覚えが悪いなあ!としばしば思って参りました。
今もそうです。 ただし嘆いてはいません。
他の人が数回で覚えるのならば自分は数十回から数百回の反復で暗記しようと思っています。
ただし正直言って、これには時間の制約があります。
人が3年で到達できる境地を20年、30年と罹ってしまします。
締め切り日があり、寿命の問題もあります。
その中で出来ることは優秀な人よりは長生きをして何とか近づこうとしています。
そのためには自分なりの使命感とか生き甲斐とか総合的に健康を配慮せざるを得ません。
綜合的な健康とはパウロが言っているように、霊プネウマ・魂ピステス・身体ソーマが調和し
た状態で統一している自己自身であろうとすることです。
十全に出来てはいませんが幾らかは出来ているのではないかと思っています。
 ここで言いたいのは、10タラントの人に比べて自分にはたとえ1タラントしか託されていないとしても、
嘆かず、悲観せず、恨ますに今自分に出来ることに真心こめて実践することではないか!! と、
体験的に今は自分に言い聞かせております。

今日のマタイ福音書の個所を少し詳しく見てみましょう。

[14] Ὥσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημῶν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους δούλους καὶ παρ(パレドーケン)έδωκεν αὐτοῖς τὰ ὑπάρχοντα αὐτοῦ,

[15] καὶ ᾧ μὲν (エドーケン)δωκεν πέντε τάλαντα ᾧ δὲ δύο ᾧ δὲ ἕν, ἑκάστῳ κατὰ τὴν ἰδίαν δύναμιν, καὶ ἀπεδήμησεν


14節のパレドーケン(預ける)と15節のエドーケン(預ける)は少し違った単語が使われています。
口語訳では「預ける」と「与える」とを訳し替えております。
他の聖書訳でも口語訳に近い訳し分けをしております。
大筋ではそんなに違いませんが、微妙なニュウアンスの違いを感じます。
前者は遠い所へ出かけて長らく留守にする状況の中で、
財産を含めた家の管理を信頼して託したことを言っております。
後者はその人各自の力量に合わせてタラントを与えております。
この与えたが含む意味は
監視する主人が居ない状況の中で主人の許可なしに自分の才覚によって運用するようにと与えて
留守にして出かけた、と言っているのです。
此処で主人は僕を信頼しきっています。

 二人の僕の態度の違いは「もうけた」と「隠した」の対比から伺われます。
何処に蒔くか・何に運用するかは、主人から任されているとの信頼がうかがわれます。
種の種類や蒔く場所は任されているのだから、
自ら進んで調べたり、学習したり、新たな仕事を開拓して働いたのではないでしょうか。
1タラント「隠した」僕は、託されたものを単なる貨幣・銀貨として見ております。
そこにはタラントとしての働きの期待を持ち合わせておりません。
運用し活用する資源として託されたとはとらえられずにいます。
主人の言葉と任せられた事柄に恐れて怖がっているだけの様に見えます。

 それを使いきって無くなったとしても、
誰かの心にその支援があたので自分の生命が助かったのだ、と心中に熱く思う人が一人でもいたとすれば、
その人から感謝の心を得たことになるのではないでしょうか。
「もうけた」とはそうした広がりを含み意味していると思います。
この言葉は信者を獲得する意味でも使われております。
(1コリント9:20 「ユダヤ人を得るためです。 律法に支配されている人を得るためです。」)

 1タラントとはどのくらいの金額でしょうか。
22:19以下の皇帝への税金論争に出てくるのは1デナリオン銀貨です。
当時の平均的な一日の労働賃金です。
当時の1タラントはデナリオンに換算すれば6000デナリオンになります。
(今日では銀の相場は金に比べるととても安くて凡そ80分の1くらいです。)
今日の一般的賃金に換算すると凡そ6,000万円です。
流通貨幣の銀の重さに換算すれば41キロになります。
この僕の財布には収まらずに敷地内の見つからない土地に埋めたと言うのは納得がゆく話しです。
 命は本質的には貨幣には還元できませんが、
事故死による賠償裁判では最終的には賠償金額が提示されるのが一般的です。
人の命は金銭には代えられません。命には命を持って償うとの考えが古から現在まで続いています。
換算されるものではありませんが、
状況によっては金額に換算して償うことが調停されて、両者が折りあう範囲内の金額を裁判所が提示します。

 神が託し・与えられたタラントは
その人に与えられた能力であれ、財産であれ運用することが前提であるようです。
この話が天の国の一つの譬えとして語られているのですから、
我々の最終的な旅の終着点において、生きてきた時間の中で、
自分に与えられた総合的なタラントをどのように用いたのかが吟味される時があると言うことなのでしょう。
ねぎらわれ、褒められる言葉が神様から与えられる。
自分自身が忘れていることもあるでしょう。
この譬えの主題は、
自分を信頼して託された生命やタラントを損なうことを心配せずに託したお方の気持ちに添って、
思いっきり運用することの大事さを教えているみ言葉であります。

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