≪メッセージの要旨≫  2020年  12月 20日   待降節第4主日

        
聖書 : サムエル記下     7章 1〜11節、16節
             詩篇            89編 2〜5節、20〜27節
             ローマの信徒への手紙 16章 25〜27節
             ルカによる福音書     1章 26〜28節

        
説教 :  『 私は主のはしためです 』   木下 海龍 牧師 (代読説教:小谷兄)
             
          教会讃美歌 : 33、 25、 30、 28


ルカ1:28 「天使は、彼女のところに来て言った。
       『おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる』
       マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。


 マリアは天使の挨拶を受けて、『何のことかと考え込んだ。』」とあります。
我々が普通に挨拶を交わして、何のことかと考え込むことはありません。
それは人と会ったときに取り交わす儀礼的な所作であり、言葉でありますから、
その挨拶の言葉から、とくに難しく考えこむようなことはしないはずであります。

すると、日本語で使われる「挨拶」とここで翻訳された「挨拶」の言語ギリシャ語が持つ
宗教的・文化的な背景・精神性の違いがあるのではないでしょうか。
この言葉 ?σπασμ??アスパスモス を翻訳した日本の専門家の全てが「挨拶」と翻訳しております。
「挨拶」のほかに(抱擁する)意味もありますが、それも挨拶の形だと言えましょう。
イスラエル社会では「挨拶」と言う言葉が持っている広がり・受けてに向かって
現実的な恵みの贈与をもたらす、と受け取っていたのだと思います。

 まず始めに、天使ガブリエルが乙女マリアの処に遣わされた。
その天使の言葉に戸惑い・困惑するマリアに向かって、
 「聖霊があなたに降って、いと高き方の力があなたを包む。
     生まれる子は聖なる者(神へと聖別された人)神の子と呼ばれる。
」 と告げます。
マリアと天使との対話が続いた後に、マリアは「わたしは主のはしためです。」と応えます。
最初の戸惑いと・混乱から立ち直って、「自分は主のはしためであるのだ」と自発的・自覚的に受け入れます。
その上で「お言葉どおりにこの身に成りますように」と応えます。

 当時の日常的な挨拶の言葉に「シャローム・平和」と言う挨拶言葉がありました。
弟子たちが戸口で述べる「シャローム」は
神の祝福をその家の人々にもたらす力を具えていると受けて捉えていました。
その挨拶「シャローム」がその家に留まるにふさわしくなければ、弟子たちに戻ってくる。と教えられておりました。
それは単なる挨拶の儀礼ではなく、リアルに主の平和がその家に留まると信じて受け止めていました。

 マリアにとって、天使の挨拶の言葉は、にわかには受け入れがたい内容でしたが、
神からの介入によって、「挨拶」が持つ具現性・メッセージ性、天使の言葉の執成し(聖霊の働き)を受けて、
神の言葉を受け入れることが最善の仕える業である「はしため」としての自己認識に至ったのです。

人は文字を読み上げるだけの、「罪の告白・真の悔改め」は出来ますが、
心底で、悔い改めの告白は至難のことなのです。
聖霊の助けと促しなしには、心底からの告白は難しいのです。

 マリアが「わたしは、主のはしためです。なんでもお言葉どおりにいたします。この身に成りますように。
と言えたのは、神様から天使が遣わされて、メッセージが告げられ、
天使の言葉が自分の中に注がれる現実・リアリティがあったからです。
神の領域からの選びの介入を受けた結果なのです。
日常的な挨拶の場面でも、挨拶する人の接近なのです。
挨拶の言葉と所作が、その方の全存在が自分に迫ってくる体験があるではありませんか。
ましてや、神の領域から介入してくる「挨拶」であるならば、
我々の最善の選択は、その挨拶の内容を受け入れるほかはないではありませんか!! 
自分に向かって差し伸べられている「挨拶」のなのですから、わたし自身がそれを受け取るほかには誰もいないのであります。

 この後すぐに、マリアは山里にある親類のエリザを訪ねて、「挨拶」をしたのです。
エリザベトへのマリア自身の接近とメセージを内包した祝福の挨拶をしたのです。
その祝福を受けてエリザとの胎内の子はおどり、エリザベトは聖霊に満たされて、祝福の言葉を返すのです。
此処では聖霊の働きが沸き起こってきます。
マリアがエリザベトを訪問したフイールド・出会いの場の領域内で二つの存在の磁場の力が接近した時に
聖霊(霊)の動きが発生し立ち上がって来たのである…とも説明できるのではないでしょうか。

 一般的にはこうした経験は畏れや慚愧の念よりも、
聖なる領域に招き入れられて包み込まれた感動領域に入るのだと言えましょう。
 「エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。
   『あなたは女の中で祝福された方です。 胎内のお子さまも祝福されています。
    わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
    あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
    主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。』

この言葉はエリザベトが聖霊に満たされて表白した賛歌なのです。

クリスマスはこの世界で神様が起こされた出来事へのお招きです。
神様が我々に向かって参入して来られたのです。
それゆえにクリスマスは讃美と賛歌の歌を歌うのです。
過って、感動した人々が作詞作曲した歌を遺産として受け継いだ教会は、
自分たちも神様の介入と聖霊の働きに喜び感動してその讃美の歌を歌うのです。 
さあ! ご一緒に歌いましょう!!

 主よ! いま世界中はコロナ禍の中で人間に不可欠である密接な交わりが持て無くなっています。
そうした中でも親密に隣人を愛し続ける情熱を与えてください。
またその道筋を開いて示してください。
   アーメン。

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