≪メッセージの要旨≫  2020年   2月 16日   顕現後第6主日     


        
聖書 : 申命記            30節 15〜20節
             詩篇             119編  1〜 8節
             コリントの信徒への手紙T  3章  1〜 9節
             マタイによる福音書      5章 21〜37節

        
説教 :  『 兄弟に腹を立てるな 』  木下 海龍 牧師


5:22 しかし、わたしは言っておく。
     兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
     兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、
     『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

     「兄弟に対していらだつ者は、裁きをうける
」本田哲郎訳

 ここで「兄弟」とは自分の身近で関わる人の全てを指すと言っていいでしょう。
全く関係も接触も無い人には怒る事柄もいらだつ機会も生じることはありませんから。
日常的な交わりや接触のある人との人間関係はどうあるべきなのか。
お互いに愛し合いなさい、と。それは原則なのですが、それだけでは、戒めにはならない。
罰則の律法が立ち上がってくるためには、兄弟を怒ったり、いらだつ者は誰でも、裁きをうける。
と罰則を明記することによって、兄弟を愛することの実態が自分にとって、立ち現れてくるのです。
しかも怒ったり、いらだつとは彼の内面・その心の内をイエスは問うているのです。
そこが宗教の領域なのです。

人を打ち殺してはいないが、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。」
人を蔑み、相手の命をないがしろにしているのですから、それは人殺しだ、と聖書は警告しているのです。
その人が生きようが死のうが知ったことではない!という対人感を人殺しと同じだと言っているのです。
学校でのいじめと世間の認知症患者への扱いには同じものが流れている気がします。
「あいつは馬鹿で弱い奴だから。
 この人は90歳を過ぎた老人であって、自分が言ったことも人の貌も覚えていないのだから・・・」と。
その人の存在性への尊厳とその人が喜ぶ配慮が欠けている気がします。
言ったことも覚えていないのだから・・・と。
それならばその約束を覚えている人が誠実に果たすべきでしょう。
こうなるのは看護する側の忙しさもあるでしょうし、生活の煩雑さに忙殺されているからでしょう。
この傾向は高齢化が進む状況で加速するような気がします。

レビ 24:17 人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。
  24:18 家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。
  24:19 人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。
  24:20 骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。
  24:21 家畜を打ち殺す者は、それを償うことができるが、人を打ち殺す者は死刑に処せられる。
  24:22 あなたたちに対する刑罰は寄留する者にも土地に生まれた者にも同様に適用される。
        わたしはあなたたちの神、主である。
     
「目には目を、歯には歯を」は過剰報復を禁じた、同害報復法です。

 神である主がこれを定める。
信仰者に対して、またすべての人に対して、神である主はこうおっしゃるのです。
これらの戒めの条文を知っていても知らなくても訴えられればこの世の裁判で裁かれます。
更に究極の法廷では確実に裁かれるでしょう。

人はその場をやり過ごせば、犯さなかった事になるだろと期待する傾向がありますが、
最後の一クァドランスを支払って和解が成立するまでは・・・平安は訪れません。
こうした状況にある我々に、イエスは一つの勧めをしておられます。

マタイ26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。

「心は燃えても」→教えを理解してすべきことを知っていたとしても、
戒めの条文は文面上は理解していたとしても、肉体とその気持ちがついてゆかないことがしばしば経験するのです。
だから集中して祈っていなさい、と。

この場合の祈りとはその前後には口誦祈祷がありますが、ほとんどは集中した沈黙の祈りです。
それは自分の内と外を客観視し、えこひいきから離れてあるがままの自分を見るようになるのです。
自分の価値観や固定した世界観から解放されて、身体の呼吸と一つになるのです。

そうすれば気がつきます。自分の変化に驚くかもしれません。
仮にそれは小さな変化であったとしても変る事が出来るのです。
それが心理的・内的なものであれ、霊的な領域であれ、前向で自分に希望が持てる状態になれるのです。

 私の小さな体験を紹介してみましょう。小さいが忘れられない体験でした。
@  半田教会時代=長男は小学二年〜高校三年まで、長女、次女の三人が年子でした。下の三女は三歳離れていました。
   半田市から静岡市への転勤の4月には長男は大学へ入学、
   長女は高2へ転校、次女は高校進学受験、三女は中二で転校手続きでした。
   帰宅すると狭い玄関に脱いだままの履物が散らばっておりました。(つづく)
A  お小遣いは6年生になると初めてその子には自由に使えるお金500円毎月上げました。
   他の子たちは6年生になるまでは全くあげませんでした。学校などで必要な文房具などは用意してあげましたが。
   たぶん何人かが小遣いをもらえる時期の事でした。(つづく)

 祈りの修練によって、心身の面でかなりの改善というか聖化という部分での成長が見られたのではないでしょうか。
しかし、完全なものであったとは言えるものではありません。
パウロの言葉のように、目標を目指して走っているにすぎません。  

フィリピ3:12 「 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。
          何とかして捕らえようと努めているのです。
          自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
  3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。
       なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
  3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、
       お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」


 さらに、自分の未熟さ、と自分の至らなさに慚愧することが絶えません。
聖書は告げます。

Tヨハネ1:7  しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、
         互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

  1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。

「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」ロマ14:19

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