≪メッセージの要旨≫  2020年   2月 2日   主の宮詣     


        
聖書 : マラキ書        3章  1〜 4節
             詩編          84編  1〜13節
             ヘブル人への手紙   2章 14〜18節
             ルカによる福音書   2章 22〜40節

        
説教 :  『 律法の凡ての事を果たして 』  木下 海龍 牧師


< 最近、わたしが出会った言葉 >
・「神畏れ人」=福音書記者のルカは「神畏れ人」と通称された、
         ユダヤ教に改宗こそしなかったものの、とくにユダヤ教倫理を重んじつつその神に帰依し、
         ユダヤ教会堂を支援した異邦人たちの出身であるキリスト教徒だと思われます。
・「かむさびた質の高さ」=折口信夫「小説 死者の書」、
               主観的には乙女マリアの姿を連想する。
・「感応」=大正大学、講師 長岡龍作(東北大学)「仁寿舎利塔の思想と表象」2020年1月22日
  随文帝=仁寿元年6月13日、父母の恩を追報して、諸々の大徳沙門を迎え、
        ・・・三十処を選び、各各仏舎利塔を起こした(601年)。
          二年、四年の前後三回にわたり、中国全土百洲に舎利塔を建立した。
 「感応」の仕組み=衆生が仏に対して「感」を致し、仏が「応」じる。
            仏が応じたことの証明として奇跡(瑞応 めでたい印)が起きる。
・「宗教心とは何でもない日常性の事象の中で感動することだ」小島岱山老師(20200124)

これらの言葉の間には相関関係や因果関係はない。
偶々、私が聴き、読んだものが意識に留まり残っているに過ぎない。
しかしながら言語として読んだり聴いたりした集中した時間は6時間前後であろうか。
かなりの数の言語が私の知覚と意識下を過したのであるのだが、
何故この四つの言葉が遺って気になるのだろうか、ということである。
共時性の世界ではここからひとつのメッセージを読み解き思索と生き方の選択をする作業が行われる。
今日の聖書を説教準備を進めていく黙想の中で一つの共通点が観えてきた感じがしました。

さて、
「主の律法」という言葉が二度出て参ります。
22節には「モーセの律法」とあります。
おそらくこの区別は禁止事項としての掟の律法と神の御心に沿って生きるという
神への信頼の生活を表現する言葉としての「主の律法」とを使い分けているのでしょう。

私が出会った言葉を鮮明に意識に残っている言葉として四つ上げましたが、
これは自分の現在の宗教的境涯とか
心境にとって繋がりのある共時的な言葉として受け取っているものです。
そして、「主の律法」という言葉もまた、先の私の四つの言葉に加わった言葉ではないかと。
これらの言葉が示している領域と広がりから或る一つのメッセージを受け取るとしたら、
それは何だろうか、と思索しているところであります。
人にはそれぞれが繋がりのある共時性の出来事に出会ったり気付いたりすることがあるものです。

さて、今日の聖書では「主の律法」に言われているとおりに実践しているヨセフとマリアが描かれております。
ナザレからは120キロほど南に離れたエルサレムに上ったのです。
徒歩でしょうかロバを使ったのでしょうか。
富士市から東京都あたりまでの距離になります。
この距離を過ぎ越し祭に毎年エルサレムへ旅をしたとあります。
この教会に富士宮市や松岡あたりから徒歩で来るのは大変だと今では思いますね。
「主の律法」に言われている通りに実践することは、おそらく大変なのだけれども、
信仰と生活が一つになっていて、実践していたと言えるのでしょう。

忘られない原宗教体験があるとすれば、
「主の律法」に言われているとおりに、生きて行く日々のプロセスの中で起こされる体験であるはずです。

ヨセフとマリアとイエスの家族(聖家族)にとって主の言葉の指示通りに営む生活の連続の中にあって、
具体的に初めて生まれた男子を捧げる儀式(幼児奉献)を行うためにエルサレム神殿に入るのです。
そこでシメオンとアンナに出会うのです。
シメオンの言葉は
礼拝式文の21番で、毎週使われているヌンクディミティス(今こそ去ります)として用いられております。
女預言者アンナは神殿から離れずにいたのですが、
幼子イエスに出会ってからは、
その神殿から出てエルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子イエスのことを語り続けました。
ヨセフとマリアの主の律法の言葉に従って節目毎に日々を営んでいる中で、
長い間待ち望んでいたシメオンをして「もう自分は安らかに去ることができる」と讃美させているのです。
更にアンナは夫と死別して、神殿を離れずに84歳になっていたのですが、
神殿に入ってくる聖家族に出会い、拝してからは神殿を後にして神の訪れを告げ知らせるに至るのです。

幼子イエスを抱いたシメオンの言葉
2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。

「異邦人を照らす啓示の光」の「照らす啓示」とは、隠された真理を啓示する意味です。
イエスこそが契約をいただいたイスラエル民族に限らず
万人に神の奥義を知らせる光であるのだと宣べているのであります。
旧約時代の神との契約から漏れた異邦人である我々の心の深みに
御子イエスによって神の救いの啓示が伝えられたのです。
救いのグローバル化、
実在(プレゼンス)の普遍性に招き入れられているのです。

普遍的で根源的な実在への畏れと敬虔さを抱いて此れからの人生を歩む人は
なんと幸いな事でしょう!!!

戻る