≪メッセージの要旨≫ 2020年 3月 1日 四旬節第1主日
聖書 : 創世記 2章 15〜17節、 3章 1〜 7節
詩篇 32編
ローマの信徒への手紙 5章 12〜19節
マタイによる福音書 4章 1〜11節
説教 : 『 誘惑を撃退する 』 木下 海龍 牧師
創世記 3:4−6
「女が見ると、その木はいかにもおいしいそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」
「女が見ると、その木は食べるに良く、目に美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた」聖書協会共同訳
誘惑の持つ甘美さに惹かれるものである。
「美味しそうだ、目に美しい、賢くなるようだ。」
イエスが受けた誘惑の状況:
@ 40日の断食後の空腹時に起こった。
民衆の空腹を手っ取り早く満たせる方法への誘いになる。
神と対立する悪魔の力を借りてまで空腹を満たすことを拒否
A 明らかな奇跡行為によって、たやすく人望を集めることができる、と言う誘惑をイエスは退けた。
神が助けてくれるかを試みてまで安易に信奉者を増やすことへの拒否
B 悪魔の力を借りてでも王権の力でもって人心を掌握して統制して善政を執行できる途を退けた。
一時的には善政を実施できたとしても所詮は悪魔の意の従うことへの拒否
ナザレの村は海抜480メートル、ガリラヤの高原から南の平原へ下る山腹にありました。
周囲は丘に囲まれ、階段状に家が立ち並ぶ景色の美しい村でした。
前の丘に登れば、南にエスドラエロンの平原とその向こうにサマリヤの連山が見え、
見下ろすかなたには東に通じるローマの公道があり、隊商や旅人がひんぱんに通っていました。
西には地中海が、東にはギレアデの山々が、そしてはるか北には白い雪を頂いたヘルモンの高峰が見えました。
ナザレの南に歩いて三十分のほどの所にガリラヤの首都セフォーリスがありました。
少年イエスはこういう一見平和な村で成長しました。
しかし時代の流れは決して平和ではありませんでした。
イエスが生まれた直後にヘロデ王による嬰児虐殺が起こりますが、
その直前の紀元前四年には、ヒゼキヤの子ユダという人物が反乱を起こし、
ガリラヤの首都セフォーリスは戦火に遭い、住民の半分が殺されたと言われております。
さらに紀元六年には有名なガリラヤのユダの反乱があり、セフォーリスの街は完全に破壊されてしまいました。
少年イエスはこう言った世相を見聞きしながら成長したのでした。
その後の紀元七年から二十五年までの十八年間、
ヘロデ・アンティパスはガリラヤの首都施セフォーリスの再建工事を行いました。
イエスは六人の弟妹がいましたので、
大工であった父親ヨセフと共に、母マリヤの作った弁当持参で、この工事に参加したに違いありません。
その途中に父ヨセフが亡くなり、イエスは工事が終わる紀元25年まで工事現場で働く中で、
イエスの人間形成が為されていったと推測されます。
イエスが30才を過ぎた紀元27年〜28年頃、突如バプテスマのヨハネの前に姿を現したのです。
感受性の強いこの青年は、乱れた世相と救いのない人々を黙って見過ごすことが出来なくなったのです。
この時からイエスの神にささげた生活が明確に始まったと言えましょう。
イエスが立ち上がった目的の気高さと内容の立派さに関連して、
イエスが受けた荒野の誘惑の意味を考えるのは重要であります。
イエスの発言と行動から乱れた世相をただすために且つ救いのない人々を救う道に於いて、
武力蜂起による考えは全くうかがえません。
マタイ26:52 「剣をさやに納めなさい。 剣を取るものは皆、剣で滅びる。」
ルカ 19:41 「 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
19:42 言われた。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。
しかし今は、それがお前には見えない。
19:43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
19:43 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。
それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
イエスは18年間に及ぶセフォーリスの復興建設現場に通う中で、
様々な技術を持つ人や各地からの働き人からの情報を学び時代を見通する知見と感覚を磨いたのでしょう。
紀元前4年の反乱や紀元6年の反乱によって町の半分の住民が殺され、敗北した直近の見聞から、
今はローマに反乱を起こしても成功の目安は立たない、
無駄に大きな犠牲者が出るだけだとの知見を持っていたと言えましょう。
そうではなく、すべての人々が救われる心の平和の世界を目指すべきであると確信したのです。
荒野の誘惑の話は、イエスが献身しようとした時の心の闘いを物語的にマタイが書き記したのだと思います。
それはより鮮明にイエスの内的闘いを表現できるからであり、
読み手や聞き手に与えるインパクトが鮮烈である手法であると言えましょう。
パウロの「ダマスコ途上の回心」もその手法です。
イエス、は物質的な解決手段や表面的な社会改革や政治的な反乱のことを疑っていたと思います。
それらは結局は人間の高慢であり、悪魔に奉仕する道につながるのではないかと。
イエスは、自分の進むべき道は、純粋に神のみこころに従うこと以外にはないと決意したのです。
聖なる領域に至る道筋には、幾多の誘惑が襲ってくるものです。
あらゆるものが、
その志を歪め低め、妥協へといざない、安易な道へと誘い込む事が常套手段として襲ってきます。
・修練の集中を妨げるもろもろのものが沸き上がって参ります。
雑念なく一心に集中すべきであるのに、
この山から下りたら真っ先に神田のうどんをたべに行きたい!とか。
鴨長明採集「発心集」より
・小田原の教懐上人、水瓶をうち割る事(音声にて捕捉説明)
・陽範阿闍梨、梅木を切る事(音声にて捕捉説明)
私の解釈:信じ、悟るという大事の前には、こだわりが妨げになるなら打ち捨てるべし、と。