≪メッセージの要旨≫  2020年   3月 15日   四旬節第3主日     


      
聖書 : 出エジプト記       17章  1~ 7節
           詩篇            95編
           ローマの信徒への手紙  5章  1~11節
           ヨハネによる福音書    4章  5~42節

      
説教 :  『 霊と真実をもって 』    木下 海龍 牧師 


サマリア人
サマリア人(さまりあじん、さまりあびと)とは、時代によって意味が変わるが、主にサマリア地方の住民、
特にイスラエル人とアッシリアからサマリアに来た移民との間に生まれた人々やその子孫、
およびサマリア教徒のことをいう。

 サマリアは北イスラエル王オムリが築いた都であったが、
アッシリア王サルゴン2世の攻撃により紀元前721年に陥落。
住民は捕囚の民となり指導的地位にあった高位者は強制移民により他の土地に移され、
サマリアにはアッシリアからの移民が移り住んだ。
このときイスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と、移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれた。

 また、
アレクサンドロス大王の時代にゲリジム山に独自に神殿を築いたこともユダヤ人たちからよく思われず、
ハスモン朝ユダヤ王国のヨハネ・ヒルカノス1世によるサマリア地方侵攻時(BC128年)に
前述のゲリジム山の神殿が破壊されるという事態が起こっている。

 なお『列王記』の記述
(偶像崇拝や多神教的な要素があったなどで誤解されやすいが、
  サマリア教はアッシリア捕囚の直後はともかく、
  西暦1世紀頃までには、ヤハウェを唯一神とし、偶像崇拝は行わず、
  モーセをもっとも偉大な預言者として、割礼や安息日といったユダヤ教と同じ風習も持っていたが、
  相違点として聖地はエルサレムではなくゲリジム山であったことと、
  モーセ五書(トーラー)は聖典であったが他の書(ユダ王国起源のものなど)は聖典に加えなかったなどがあり、
  特にユダヤ教のファリサイ派とはトーラーにない宗教的規定を守るかどうかで考えが異なっていた。
  サドカイ派は規定についてサマリア人と同じように「トーラーを守ればよい」としていた。

 もっとも、ユダヤ人たちもサマリア人を完全に異民族として見ていたわけではなく、
前述のヨセフスの『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』でもユダヤ人の領域を上げる際にサマリアが入っていたり、
ラビたちもタルムードでサマリア人を異教徒扱いにするかユダヤ人に準ずるかで意見が分かれたり、
キリスト教の『マタイの福音書』にもイエスの弟子たちが、
サマリア人を異民族に入れるのか否なのか迷うらしい描写がある。

 これ以外にも新約聖書にはしばしば登場し、イエスの福音を受け入れたものも多かった。
また、イエスも彼等を迫害の対象とはせず、「隣人」として受け入れていた。
現在、ユダヤ人たちとは和睦が成立し、ユダヤ教徒の一派として認められている。
         出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

 イエスはヨハネ三章で
ユダヤ教の指導者でありサンヒドリンの議員であるニコデモの訪問を受けて対話をしております。
3:3 イエスは答えて言われた。
   「はっきり言っておく。 人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

3:10 「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」 

求めてくるニコデモに対してイエスは神の領域を巡って厳しく迫っております。
イエスは教えを乞うニコデモに真正面向から対峙するのです。
師家に参禅する場面を思い起こさせます。
情報の過多を伝える役割ではなくて、
肉眼では見えないが確かに存在する領域を見るに至る意識の転回と気づきを
歯に絹を着せず、強烈に迫っております。

 そして今日のヨハネ4章はサマリア教の信徒であるサマリアの女との対話篇です。
この聖書箇所に於いてもニコデモとの対話の場合と同じようにイエスと女との対話は噛み合っておりません。
それでもイエスは女の置かれた現状に視点を合わせたりしながら導いてゆきます。
ニコデモに対しては「人は、新たに生まれなければ、「神の国」を見ることはできない。」と詰め寄りましたが、
サマリアの女には
 「私が与える水を飲む者は決して渇かない。
    私が与える水はその人の内で泉となり、「永遠の命」に至る水がわき出る。
」と。
日中に水をくみに井戸に来た女に、その人の中で泉になる水が「永遠の命」に至るのだと導かれます。 

 イエス自身がユダヤ人であるからと言って
ユダヤ教の方が特別に優れている宗教であるとはここでは言っておりません。
ユダヤ教の代表者ニコデモもサマリア教の信徒である女の双方共に
このままでは、大きな見落としがあって真実の「神の国」を見落としていると言っているのです。
双方ともに長い歴史を背景にして存立しているがゆえに、
それぞれのこだわりが、目に見えない実在をただ肉眼で見ようとして迷路に迷っていると諭しておられるのです。

イエスの
 「神は霊である。 だから神を礼拝する者は、霊と真理を持って礼拝しなければならない。
はユダヤ教もサマリヤ教双方を相対化してしまっております。
現実界においてはキリスト教も仏教も
或る実在を枠組みとか言語で掬い上げた表現形態で表わさざるを得ません。
いわばそれは一種の仮名であり、また虚像であると言えます。

 見えない存在を見える形の表象や、言葉を超えた存在であるにもかかわらず言葉で説明し、
言葉で宣教せざるを得ないその限界と制約は初めから付きまとっていたと言えます。
表象と文字概念を使って説明や弁明をするわけですが、
受け手側が神の領域を獲得する、感得する、実感するためには
その人の中で一度「現実界的概念の解体」を経なければなりません。
そうした後に、その人は形象や文字概念に依拠して自分の体得を表現するのです。

 此の場合に
真に宗教体験が伝わる人と形象や文字の範疇にとどまってしまう人との違いが現実に起こって参ります。
この辺の違いの生じる謂れけは簡単には言えませんが違いはあるわけです。
その違いについて、
辻雙明(ツジソウメイ)老師云く「その違いは、人の素質の違いからくる」と言われましたが・・・・。
わたし自身はその素質の違いはどこから来るのか、と思いますので、少し違うのではないかと思っております。

霊の働きに気付くのは吹いてくる風に皮膚感覚で気付くように、神の実在に気付くことなのです。
その神は独り子を与えるほどにこの世と私を愛されていると気づくことなのです。
しかもそれは日々のプロセスの中で気付き続けて行くことなのです。
時がよくても悪くとも、神に生かされ、愛されて自分が存在していると感じて生きて行けることなのです。
それが人生における修練というものなのです。

「真理」と訳されている「ἀληθείᾳ(アレセイア)」は
論理的抽象の表現であるよりも、虚偽を少しも含まず、よそ見せず、真っすぐに、混じりけなく、
ひたすらに、心を尽くして・・・といった事を指しております。

「霊」と訳されている「πνεύμα(プネウマ)」は、
風、息、肉体を生かしている霊、肉体に対する精神を表現する語彙です。

「神は霊である」と言っているのは、
神ご自身は善き霊そのものであるのだから、あなた方も神を礼拝する場合には、
混じりけの無いあなた方自身の霊でもって礼拝するように、と言っているのです。

礼拝式文の初めの箇所で短い沈黙をしてもらっておりますが、
それは霊そのものである神に向かうために
私たちも純粋な自分のプネウマ(霊)である自分の息を真っすぐに整えていただいているのです。

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