≪メッセージの要旨≫  2020年   4月 12日   復活祭(イースター)     


        
聖書 : 使徒言行録        10章 34〜43節
              詩篇           118編  1〜2、14〜24節
             コロサイの信徒への手紙  3章  1〜 4節
             ヨハネによる福音書    20章  1〜18節

        
説教 :  『 我が師よ!! 』      木下 海龍 牧師 


イースターおめでとうございます!! 
共に聖餐式礼拝が持てないことは誠に残念です!!
それでも、今日はイースターです!! イエスの復活を喜び祝いましょう!!

 週の初めの日の朝、マグダラのマリアから知らせを受けた二人の弟子が走って墓に向かった。
若いヨハネが先に着いたが墓には入らず、入り口で待っていた。
後から着いたペテロが墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見たがイエスの遺体のないことを確かめた。
そのペテロに続いて先に来ていたヨハネも墓に入って、
イエスの遺体は無くて亜麻布が置かれてあるのを見て、信じた。
この突然の出来事の中では
理性的には納得のできる説明はできないが直観的に信じる領域に入ったのではないでしょうか。

理性的に且つ、
この世の概念からは受け入れられないのだが、人にはそのことを受容する領域もあって、
その出来事を否定することなく、信じ受け入れて、心の奥に納めることもあります。

1節から8節の間に、「見る」という動詞が四回使われておりますが、
1節と5節はブレバーを、6節にはテオレオーを、8節にはエイドンが使い分けられております。
ブレバーとテオレオーは復活の状況証拠を見ておりますが、
エイドンの「見る」は、本来、見る目的を持たない動詞なのです。
日本語聖書には「これを見て」と補っておりますが 原文には「これを」はありません。
この「見る」は肉体の眼ではなく、「心の眼で見る」とか「心の眼で理解すれば」とか、
「これまで教えられてきた世界の見方から離れて」とか、「クギ付けにされていた見方から自由になって」などと、
理解できる語彙だと思います。
とにかく、
この瞬間弟子ヨハネは説明はできないがイエスの遺体のない意味を積極的肯定的に探ったのです。
あとで、聖書の言葉を思い起こしたりして、うまく説明できない何かを必死に探っていたのではないでしょうか。

 一方、マグダラのマリアは去りがたくて、墓の入り口に留まって、泣いていたのです。
泣いていて近づいてきたイエスに気が付かないでいるマリアにイエスは「マリア」と声をおかけになったのです。
「大空にあなたの名前を書く」という詩がありますが、会えないでいる愛しい家族の名前を呼ぶことがあるでしょう。

 「マリア」と呼ぶイエスの声は一瞬にしてマリアを覚醒させました。
「目て見て口で言え」という諺がありますが、マリアは耳で聞いてイエスの存在を知るのです。
耳で見たとも言える状況ですね! 
思慮する暇もなく、「ラボニ」と叫ぶのです。
説教題の「我が師よ!」はここから採りました。

 聖書はいかにして墓の中でイエスは復活したかを一切語りません。
証明しようとも致しません。
行き詰まって落胆の極みにいる人にイエスはその人の名前を呼びかけながら現れたと語るだけです。

 マグダラのマリアや恐れて閉じこもっていた弟子たちに現れたのは、
先の見えない過酷な人生に立ち向かって「イエスは復活された!」と信じ、
証して、生きて行けるために現れたのです。
それがイエスの神秘性です。
すなわち復活はイエスの神秘性への誘いとも言えましょう。

初期には弟子たちはイエスを決定的に誤解しておりました。
ローマ帝国の支配からユダヤ人を解放してくれる政治的解放者として期待をかけておりました。
ところがイエスが逮捕され、十字架刑に処せられると、恐怖と絶望に駆られてと逃亡しました。
だが、弟子たちはその直後に、「イエスの復活」の出来事によって深く突き動かされたのです。

 殉教の死に至るまでキリストを証しする者へと変容していったのです。

初期のイエスへの期待とは異なり、驚くべき神秘へと弟子たちは巻き込まれて行きました。
「あの方は一体全体どういう方であったのか」と。全く新たな問いへと直面させられたのです。
これが復活です。
復活のイエスに当面した此の場所から、初めに振り返って書き直したのが福音書なのです。

 「我が 師よ」と礼拝したマグダラのマリアは、
復活した神秘であるイエスを人生における私の師だ!と宣言しているのです。

 信頼と尊敬の気持ちで、
牧師会に集った牧師方に、「・・先生」と呼びますが必ずしも全員が人生の導き手であるとは限りません。
一方、既にお亡くなりになった信徒の方々の佇まいや言葉が今の自分を導いても居ます。
現在でも三人の方を「我が、師」と呼べる人がご健在であることは、幸いだと思っております。

 皆様方もそうした「我が、師」と言える人に出会い、持たれることをお勧めします。

 更に、
復活のイエスを「我が、師」として、神秘的なかかわりを持ち続けられますようにと熱く祈り願う次第であります。

 復活の主の平安が皆様方の上にありますように、
 アーメン。

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