≪メッセージの要旨≫ 2020年 5月 17日 復活節第6主日
聖書 : 使徒言行録 17章 22〜31節
詩篇 66編 8〜20節
ペトロの手紙T 3章 13〜22節
ヨハネによる福音書 14章 15〜21節
説教 : 『 真理の霊 』 木下 海龍 牧師
教会讃美歌 : 96、 318、 171、 333
ヨハネ13章1節から、過越祭の夕食から始まって、
ペテロの洗足、裏切り者への指摘に続く惜別の説教が16章33節まで続きます。
今日の聖書箇所はその中の一部分です。
普通はこれらのヨハネの個所は四旬節や受難節に読まれることが多いのです。
今年の教会歴では、イエス復活後の復活節にしばしば登場しております。
同じ言葉であっても用いられる時と時節によって
その言葉が語られることの意味合いのニュアンスには特別の意図が含まれて参ります。
十字刑の直前ではなく、
イエスが死に打ち勝った復活後を生きている信仰者に向かって語っているのですから当然でありましょう。
その言葉は過って聞かされた言葉であり、「そうだったのか」と再認識させられる言葉でもあったはずです。
当時の弟子たちもまた我々現代の信仰者も同じではないでしょうか。
今の教会礼拝には高齢化した信徒の割合が多いのですが、
それは同時に
「ああそうだったのか!!」と再認識することのできる機会がしばしば与えらる幸いでもあるわけです。
何を再認識して、且つ改めて心揺り動かされるのでしょうか。
16節「われ父に請わん。」
それは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」
そのために「父にお願いしよう。」
そのイエスの願いのゆえに
「父は別の弁護者(パラクレートス)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と。
使徒信条に「聖霊は父と子より出で」と告白されているのは、
イエスが「われ父に請わん」と決意したゆえに信仰者助ける「パラクレートス」が派遣されたのだとを告白しているのです。
そして主イエスとパラクレートスである真理の霊とはシンクロニシティしており、
「あなたがた」と呼ばれている我々信仰者ともシンクロニシティいる存在関係でもあるのです。
そのことを次のイエスの言葉が表現しています。
20節「かの日には、わたしが父の内におり、
あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなた方の内にいることが、あなたがたに分かる。」
21節「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしをあいするものである。
私を愛する人は、わたしの父に愛される。
わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
十字架刑の前に言われたこれらの言葉が、弟子たちにどれほどの理解が得られたかは疑問です。
しかし、主イエスの復活を目撃した今は、即ち「目で見て、よく見て、手で触れた」今は!!
「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えられている」今は!!
はっきりと理解できたと言えましょう。
「復活節」を生きるとは、この今を皆さんは生きているのです!!
主イエスの戒めを守るとは、イエスの志を受け継いで生きる道を選択したことであります。
教会の最前線でその人なりに戦線に立っているからこそ、
その戦い半ばで志が崩れないために助け主が必要なのです。
弁護者が一緒にいることが強力な援助になるのです。
真理の霊が我々を導く!!
神である真理の霊ご自身が我々を導かれるのだ。
今も後も永久に。
教え、諭し、導いてくださるのだ。
これほどの恩恵がありましょうか。
これ程の恩恵を、どこで手に入れることができると言うのでしょうか。
イエスがわれわれを孤児にしないために父上に願い、
その父上である神から遣わされたパラクレートスである真理の霊なのであります。
何故我々に遣わされたのか。その理由は私には分かりません。
ただただ父である神の豊かな憐みのご計画に基づいたものなのだと告白するだけです。
私の思いや熱心さに寄らず、神の憐みに寄るがゆえに、イエスの父なる神を褒めたたえる他にはないのです。
私が洗礼をうける前後に感じたのは、何故私なのか?
周りには私以上に素晴らしく、素直で良いお人は沢山いたではないか、と。
何故私が洗礼を受けるに至ったのかは今でも分からない謎です。
分からないその謎が私をして、神礼拝に列席させている心情の一つなのだと思います。
復活の主イエスは、天の父なる神の右に坐して我らのために今もとりなしをしておられます。
一方、地上に於いては、
イエスの志を継ぐ信徒を支援し守るためにパラクレートスである聖霊を送ってくださっているのであります。
憐れみたまえ、主よ。
アーメン。