≪メッセージの要旨≫ 2020年 5月 3日 復活節第4主日
聖書 : 使徒言行録 2章 42〜47節
詩篇 23編
ペトロの手紙T 2章 19〜25節
ルカによる福音書 10章 1〜10節
説教 : 『 イエスは先だちゆく 』 木下 海龍 牧師
教会讃美歌 : 89、 410、 95、 289
ペテロの手紙には、イエスは死してすぐに陰府の国に行かれた!とあります。
さらに、使徒信条に於いても「十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、」
そうであるがゆえに、陰府の国へも我々信仰者に先立ちゆかれたのです。
ペトロの手紙T 3:18 キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
3:19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
3:20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、
神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。
復活節第3主日に於いてもペテロの手紙を読みました。(ペトロの手紙T 1:17〜25)
この箇所では、主の復活を信じ受容している者の生活姿勢、人生の視座、
兄弟への清い心で深く愛し合うようにとの勧めが語られております。
それはたとえ「この地上に仮住まいする間であっても、イエスへの信仰と兄弟愛を持って生活しなさい。」と。
主の復活の出来事を目撃した初代教会の人々の視座からすれば
「今の世は仮住まい」の時間帯であり、
真剣に真面目に生きているのだけれども、しょせんは仮住まいであるのだ!と認識していたのです。
復活節の42日間を生きている私たちを導く中心点はそこにあるのだと思われます。
地上の仮住まいの間にも、様々な問題と課題を克服して行かねばなりません。
その時にも主は先頭に立って我々を守り、安全な道へと導かれます。
私は85歳の人生を顧みて、
私なりの困難と困窮に遭遇しながらでも、主の憐みによって今日まで導びかれてきたと痛感しております。
(東京に出て来たものの部屋を借りるお金もなく、その日の夕食の当ても無い日々を思い起こします)
この世の日々を復活の主は先頭に立って導いてくださっておられます。
そうではありますが、
この復活節の42日の間にわれわれの意識を仮住まいのこの世に生きつつも、
次の命の領域へと目覚めさせ、整えさせようとしているのです。
我々の生命体は仮住まいの世界では始めと終焉がるのだけれども、
創造主の眼からすると総体としての命には終焉はなく、
新たな展開へと導かれるのだ、と教えているのです。
ペテロの手紙12:11に於いても「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」
旅が終わるのは、外見的にはこの地上に生きる生命体としての肉体の終焉によるのです。
それは同時に「この世の闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださるのです。
しかも仮住まいの時期に、鏡の中を覗き込むようにではあるが次の命の領域を体験するのだ、
とパウロは証しております。
ヘブル6:1〜2 だからわたしたちは、
死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、
死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、
キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。
ここで「成熟を目指して進みましょう。」とは何を目指すと理解できるでしょうか。
パウロの以下の手紙からヒントが得られるのではないかと思います。
コリントの信徒への手紙U3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、
文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。
文字は殺しますが、霊は生かします。
文語訳
「神は我らを新約の役者(エキシャ)となるに足らしめ給えり、
儀文の役者にあらず、霊の役者なり。儀文は殺し、霊は活かせばなり。」※田川訳(新約の仕え手)
基本的な教えとは、語る言葉(説教)や文字(聖書・神学書)、礼拝式に於いて、先達から学んで参りました事柄。
その基本の学びを土台にしつつ、
あなた自身の心中に於いて、神からの感動体験、あなた自身の霊的な知見を持って自分とこの世を認識し、
来るべき新たな世界のイメージを持って生きぬいてゆきなさいと、語っていのではないでしょうか。
今はそのように思っております。
そうした意味で、復活節の42日間を生きる者にとっては、「ペテロの手紙」と「へブル人への手紙」は、
私どもの視座を広く、深く、高く、永遠の領域へと導いてくださいます。
「憐れみ給え、主よ。アーメン」