≪メッセージの要旨≫  2020年   6月 21日   聖霊降臨後第3主日     

        
聖書 : エレミヤ書         20章  7〜13節
              詩篇            69章  8〜19節
              ローマの信徒への手紙  6章  1b〜11節
              マタイによる福音書   10章 24〜39節

        
説教 :  『 人の前にて否む者は 』  木下 海龍 牧師
              
          教団讃美歌 : 355、 243、 453、 525

マタイ10:33
 「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。

我々が「イエスを知らない」と表明する状況には二つあると思います。
しかもその根は一つであると言えましょう。
周囲の目を気にして思わず自分を守ってしまう状況があります。
もう一つ面は、「このいと小さきものにしたことは私にしたことである」25:45
このイエスの言葉の前に、我々は恥じ入るばかりです。
そのいと小さな人を私は内心で軽んじたことがあったからです。
この最も小さき者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。
これもまた、その最も小さい者の前でイエスを否んだことになると聖書は語っております。

26:33〜35 
 「するとペテロが
   『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決っしてつまずきません』 と言った。
   イエスは言われた
   『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう。』
   ペテロは
   『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』
    と言った。
 弟子たちも皆、同じように言った。
26:69〜75 
 「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた。」
   ペテロは皆の前でそれを打ち消して、
   『何のことを言っているのか、わたしには分からない』と言った。
 
72節
 「そんな人は知らない」 と誓って打ち消した。

 74節〜75節
 そのとき、ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら 「そんな人は知らない」 と誓い始めた。
   するとすぐ、鶏が鳴いた。
   ペテロはイエスの言葉を思い出した。 そして外に出て、激しく泣いた。

(マタイ福音にある証言の一部です。)
ルカ福音書からもこの場面の一部を読んでみたいと思います。
ルカ22:34
 「シモン、シモン、
   サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
   しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
   だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
   するとシモンは、
   「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」 と言った。
   イエスは言われた。
   「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」


さて、我々のイエスへの信仰の実態と言うか、その内実について観察すれば、
本当にイエスを信じ従っている面と時には
「イエスとは関係がない」 と言葉や行動で表明していることが交錯しているのではないでしょうか。
私は1956年4月1日に
ラース・イングルスルード牧師から洗礼を受けて以来の64年間を振り返りますと確かにその両面がございました。
これまでに坐禅の指導を直接に受けてきたお方には、
辻雙明老師、小池心捜老師、後藤英山老師、小島岱山老師方ですが、
皆さん私がキリスト教の牧師であることをご存じの上で禅についてご教示くださいました。
カソリック教会のラサール神父、門脇佳吉神父、リーゼンフーバー神父もそうでした。
そのほかにもコロナ禍の前までは、時折に尋ねる神保町の「居酒屋・兵六」では
常連の鈴木さんの会話の中で、彼が自分の職業(勤務医)を表明したので
私も牧師であることを伝えましたので、その店の主も知ることになっています。

 もちろん、すべてのところでいつも自分の職業を表明しているわけではありませんが
状況の中で表明すべき時にはどんな場であっても隠さずに表明することにしております。

 ところがあるときに、自分が牧師であることを否定したことがございました。
生涯忘れられない事件であったと、
今でも思い起こせば赤面の至りで身を攀じてしまうほどの忘れられないトラウマになって残っております。
それは、牧師按手を受けて富士教会に赴任した年の冬の季節であったと思います。
静岡市青葉通りに面したおでん屋のカウンターで自分が「牧師」であることを否定した出来事が起こりました。
(詳しい内容は当日の説教でいたします) 

人は迫害や生きづらさから信仰表明を否定することもあるのではないでしょうか。
他方、 「イエスとは関係がない」 と言ってしまった自分自身に嫌気がさして、教会から去ったり、
普通に生きて行ける通過儀礼的な神仏信仰の生活に戻ることもあるでしょう。

 これらのことを良し悪し抜きで認めた上で、
私自身が現在まで牧師職を続けて来れたのはイエスが私のすべてを見越したうえで、
わたしを執り成して下さっておられる他はありえなかったのだ、と受け止めております。

イエス様は今も私に向かって仰っておられます。
 「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
   だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 

 あわれみたまえ、主よ。 アーメン。

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