≪メッセージの要旨≫ 2020年 6月 7日 三位一体
聖書 : 創世記 1章 1節〜2章 4a節
詩篇 8編
コリントの信徒への手紙U 13章 11〜13節
マタイによる福音書 28章 16〜20節
説教 : 『 人の子は何者なるか 』 木下 海龍 牧師 (代読説教:大石兄)
教会讃美歌 : 66、 249、 67、 276
「人間は何ものなのでしょう。」詩篇8:5
詩編の作者のこの詞は秘められた神の奥義を知らされて、驚き畏れている告白です。
神の御心が明かされ、福音の宣教を託されるとは、人は何ものなのでしょうか?!
神が創造された世界を管理し、治めることを託すとは人は何ものなのでしょうか。
託された任務を果たし得ず、堕落とその結果の苦悩の道を選んでしまっている世間の人々に
救いの道を宣べ伝えるようにと促すとは、その世間の人とは何者なのでしょうか。
「彼は世にあり、世は彼に由りて成りたるに、世は彼を知らざりき。
かれは己の國にきたりしに、己の民は之を受けざりき。」文語訳ヨハネ福音1:10―11
「われらの尚ほろびざるは
主の仁愛(いつくしみ)によりその憐憫(あわれみ)の尽きざるに因る」文語訳哀歌3:22
マタイ 28:17 「そして、イエスに会い、ひれ伏した。 しかし、疑う者もいた。」
十一人の弟子たちは、イエスが指示しておかれた山に登った。
そこで復活されたイエスに会い、ひれ伏したのです。
「しかし、疑う者もいた。」とマタイは書き記しています。
主の昇天50年後に福音書を書き記す折に、
マタイはその時の11人の状況を思い起こして、そのままの弟子の心の内面を書き記したのではないでしょうか。
私どもの心の内には、思いがけなくとてつもなく良いことに出会ったときに、
「うそ!!」と叫びたくなる心境になるのではないでしょうか。
心の半分では、「そうだったら良いなあ!!」と期待しており、
他の半分は「常識的に考えて、それは怪しい!」と思ってしまう傾向が良し悪しに関わらずあるようです。
弟子集団の半分が疑ったともとれますし、
弟子たち一人ひとりの心の内には、半分は信じ、半分は疑いの要素があった、とも読めます。
ところでマタイがここで使っている「疑う(ディスタゾー)」と言う単語は、
新約聖書では、マタイ14章31節を含めて二カ所だけです。
この単語の詳細な説明は省略しますが、
「ディス」は「二つ」を意味するものであって、(ディスタゾー)は「二つの方向に歩む」の意味になります。
14章31節では、ペテロはイエスのもとに行こうと荒れ狂う海の上を歩みだすのですが、
荒れる波を見て恐れて溺れかかると、「主よ、助けてください」と叫んだ。
イエスがすぐに手を差し伸べて助け「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」と言われた。
ここではペテロの心は二つに分かれています。
イエスのもとに行きたいと思いながら、イエスとの間に遮る荒波におびえています。
こうした心の内を「疑う(ディスタゾー)」で表現しております。
マタイがあえてこの単語を使っているのは
「ディスタゾー」を契機にして「本当に、あなたは神の子です」と告白して
イエスを伏し拝む真の信仰告白へと至るものなのだと伝えたいのではないでしょうか。
信仰集団が陥る大きな危険性があるとすれば、
すべての面で、何もかもが模範的な内容と様式が一致しなければならないと、
強制するところにあるのではないでしょうか。
何もかもがバラバラでは礼拝は成り立ちませんが、
その礼拝の場には心身共感のも多くありますが、一方そこに集っている人々は、
いろいろな面で違った内面や生育史や成熟度の違いを抱いている人たちでもあるのです。
教会は本来的にそれらの違いを許容した抱擁力が求められている場であるのです。
ペテロは思い違いや的を外したり主を否定したりの連続でしたが、
最後のところでは、もはや神に頼るほかは道はないところまで追い込まれたのではないかと思います。
自我の確立を大前提にしてきた近代の人間像は、
自分の力に依拠して生きるものだとの思いが人生の終焉まで握りしめている傾向があるようです。
己の全てを神の中に投げ込んで生きる道からはズレテしまっています。
死に臨んで己の力に何ほどの依拠観が残っていると明言出来ましょうか。
そうしたズレタ選択をしてしまう傾向の11弟子や、わたし共のキリスト者に向かって、
神はいつくしみ深く憐れみを持って私を導き、
永遠の視座から見た道を歩むようにと促し続けてくださっております。
「人は何ものなのでこんなに顧みてくださるのでしょうか?!!」
詩編の作者は驚き感動と懺悔を持って、神に栄光を捧げているのであります。
神についての論述や説明は難しいのですが、
ここにこそ、三位一体の神様の実像が露わになっていると信じるものであります。
憐れみたまえ、主よ。アーメン。