≪メッセージの要旨≫  2020年   7月 19日   聖霊降臨後第7主日

        
聖書 : イザヤ書          44章  6〜 8節
              詩篇            86章 11〜17節
              ローマの信徒への手紙  8章 12〜25節
              マタイによる福音書   13章24〜30、36〜43節

        
説教 :  『 毒麦と天国の譬え 』  木下 海龍 牧師 
              
          教団讃美歌 : 503、 234A、 504、 229

この毒麦の譬えは天国の譬えなのです。

天国においては、その人の最終的な判断をするところである、と。
その判断はこの世の短い人生が終わって、最終的に人の命を養いその命に仕えたかどうか。
その基準で、判断されるようです。
ただ彼に命が続いている限りは、しいて、取り除くことを主は禁じておられます。
それは誤って麦の命まで取りさられることを心配してのことです。
世の終わりの刈り入れの時まではそのままに、と。

私の感覚では、それは非常に長いスパーンです。
世の終わりとは何時のことでしょうか。
ここに謎を感じます。

仮に、私が毒麦だとしても、
何億年も後の世の終わりに焼かれるとするならば、毒麦を使ったこの天国の譬えは何だろうか!!?
ここには我々が生きる世界とは異質の時間の観念が前提にされているのでしょうか。
直線的な時間の表現とは別の時間感覚です、
「千年は一日、一日は千年」(ペテロ第2 3章8節)と表現される時間感覚というのでしょうか。

マタイはこの毒麦の譬えに於いて、なぜあいまいに「彼ら」と言っているのでしょうか。

それは群衆と弟子の境界線が固定されていないとマタイは考えたからなのです。
実際、イエスは聴衆を分け隔てなく誰にでも語られたからです。
譬えを聞いて「天国の秘密」(11節)を聞き取れた者が弟子なのであります。
逆に聞き取れなければ、群衆のままであるのです。
群衆と弟子との境は伸縮自在、あらかじめ固定されているのではないのです。
マタイはそれをこの場面で強調したいのでしょう。
しかもこの「彼ら」は弟子になりうる群衆なのであります。
かって私は多数の中の一人として牧師の説教を聞き、聖書の学びの末席にいたように・・・・・。

13章27節から主人と僕の会話が始まります。
僕は敵を見ていません。
畑で働いたのは主人だけだと思う僕は、毒麦を見て驚き、「どこから毒麦が入ったのか」と問います。
僕は惡である毒麦の実在が納得できずにその起源を問うっております。
主人はただ短く「敵の仕業だ」と答えるだけです。
敵が悪を作り出すのだが、ここで注意したいのは、敵と述べるだけで、
それ以上は敵の姿を明確にしようとはしないのです。
24-26節で敵の隠密な行動が力説されたことを考え合わせると次のようなことが言えましょう。
この譬えでは、悪の実在をのべるにとどめ、その起源については踏み込もうとはしていません。

28節後半で僕たちが主人の思いに忖度する気になって「毒麦を抜き集めましょうか」と提案します。
僕たちは惡の存在が許せないのです。
直ちに滅ぼすべきだと考えているのです。

 しかし主人はそれを止めて「それにはおよばない」と応えています。
その理由は今は抜くべき時ではないからです。
毒麦はいずれ集められて燃やされるが、今はまだその時ではない。
僕たちの提案が間違っているわけではない。
だが時期が早すぎる、と主人は考えます。
僕たちの提案を主人は避けるが、この拒否にきょうの譬えの狙いがあるのです。

この譬えは、30節後半から考えて、確かに未来の決定的裁きを視野に入れています。
だが、その裁きに譬えの狙いがあるのではありません。
未来の裁きを語る理由は、
主人が今取る態度、つまり毒麦(惡)を滅ぼそうとしない態度を説明することにあるのです。
この譬えの狙いは惡の起源を過去に探って調べることでもないし、
未来に起こる決定的裁きを述べることでもありません。
むしろ、今、主人が取る姿勢を述べることにあるのです。
主人は毒麦を滅ぼそうとはせず、忍耐しています。

 以上のことから見て、この譬えが語られた理由を以下のように推量することができます。
イエスの宣教方法に不満を抱く人がいたのです。
その一人が洗礼者ヨハネです。
洗礼者ヨハネはイエスの使命を悪の撲滅と考えていました。
だが、現実のイエスは社会に満ちる悪を洗礼者ヨハネが糾弾したようにはせず、
そればかりか、罪びととの交わりを深めていました。
それが不満で、ヨハネは自分の弟子を派遣して、イエスを問いただします。(11:2−6)。

イエスは派遣されてきたヨハネの弟子たちにこの譬えを語ったのです。
今は裁きの時ではなく、憐みの時である、と。(9:9―13) 
神は惡をうやむやにはせず、いつか裁くであろう。だが今
は憐みの時、忍耐の時であるのだ、と。

今の時代、令和2年、コロナ禍の今を生きる人類に、
神様の憐れみと忍耐が注がれた時が流れていると主イエスは仰っております。
この世の雰囲気に合わせて、牧師でないと言ってしまった私、偽牧師にも、
主の憐れみと忍耐が熱く向けられていると、今日のみ言葉から受け取らざるを得ません。
それ故にこそ、私は純粋に、己の務めを全うする他には自分が生まれてきた意味を見出されません。

 憐れみたまえ、主よ。
 アーメン。

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