≪メッセージの要旨≫  2020年   7月 26日   聖霊降臨後第8主日

        
聖書 : 列王記上          3章  5〜12節
              詩篇           119章129〜136節
              ローマの信徒への手紙  8章 26〜39節
              マタイによる福音書   13章31〜33、44〜52節

        
説教 :  『 天の国を学び続ける 』   秋久 潤 牧師 
              
          教会讃美歌 : 358、 413、 290、 391

 「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、
     自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている

とイエス様は言います。
この言葉が語っているのは、所有あるいは占有の放棄です。
未使用の新しいものと使い古したものを「取り出す」と言われているからです。
倉の中にしまっておくのではなく、全ての人が利用できるように「取り出す」と言われているのです。
占有を放棄する人は、「天の国に弟子とされている」人です。
天の国のことを学ぶこととは、
単に知識として知ったということではなく弟子入りすることであり、学び続けることです。
天の国に弟子とされる人は、天の国のことを学び続けるのであり、その学びに終わりはありません。
常に新たに学び続ける人こそが天の国の弟子です。

天の国の弟子は、天の国に入るというよりも天の国の在り方に生きようとしている人であり、
その在り方を常に学んでいる人です。それゆえに、倉から全てを外に取りだしています。
なぜなら、自らの占有を主張せず、すべての人が使用可能であるものを取り出すからです。
自分自身が学んだもの、学びつつあるものを他者と共有して生きる。
占有を放棄するのですから、先の二つのたとえのように「持ち物をすっかり売り払」うようなものです。
それは、この世の金銭的価値以上のものを見ているからです。
そのような人は、持っているものを全て売り払うのですから、素っ裸になります。
自分自身そのものだけになります。これが天の国に弟子とされた者の姿です。
この占有を放棄させるような力こそ天の国なのです。
それゆえに、網に捕らえられる魚のようなものであるとも言われています。

天の国は知るのではありません。
天の国が人を弟子とするのです。
天の国が人間を弟子として、その内に生かします。
天の国は人を捕まえて、全てを放棄するようにさせる神の力なのです。
そのような人間は、自分が占有しているものによって生きるのではありません。
自分が自分であるように生きます。
自分が持っているものによって生きることはなく、それらを取り出して(外に投げ出して)生きます。
このようになるにはどうしたら良いのかと考えてもどうにもなりません。
真実に天の国に弟子とされた者は必然的にそうなるのです。

自分から全てを放棄しようなどとは誰も考えないでしょう。
そのようなことをすれば、生きていけないと思うからです。
誰もしたくないことをするとすれば、それは自分がなりたい者ではありません。
なりたいと思わなくとも、そうせざるを得なくされて生きます。
それが天の国の必然性なのです。
そこにあるのは、神様の意志の絶対的必然性です。
放棄すれば何かを得られるという目的をもってそうするのではありません。
神様の意志に従う者は従います。従わない者は従いません。それだけです。
従う者は、従ったならば何かを得られると思って従うのではありません。
そのような獲得目的のために従うのではありません。神様に従うこと自体が天の国の在り方です。
それゆえに、神様に従うこと自体を喜びとする人しか従いません。
すべての占有を放棄して、自分しかない人間として生きることを喜びとする人。
その人こそ天の国に弟子とされた人です。

では、私たちは天の国に弟子とされているのでしょうか。
学び続けているならば弟子とされています。
天の国そのものであるイエス・キリストに従おうという意志のみに生きているならば、弟子とされています。
その意志は、私が起こす意志ではなく、神様が起こした意志です。
これを信仰と呼ぶのです。
信仰は神様に従う意志を起こされ、キリストに従うことを通して神様に従うのです。
キリストに従うことは、天の国の弟子とされることです。
天の国を学び続けることです。
キリスト者は天の国を学び続け、完全に生きようと求め続けている存在です。
キリストが生きたようにわたしも生きようと求め続けている者がキリスト者です。
このとき、私が占有しているものは何一つ役立ちません。私自身、私の魂そのものだけが必要なのです。
真っ裸の私だけがキリストに従うのです。
多くの所有物を持ってキリストに従うのではありません。
所有物が多くあればあるだけ、従うことが困難になります。
天の国を生きるのは、私そのものだけであり、所有物はあっても邪魔なだけです。
私が天の国に生きているならば、終わりの日には何も持たないままに神の前に出ることを思い起こすでしょう。
それゆえに、現在も何も持たないままに神の前にひれ伏すのです。
神様に何かを差し出して、天の国に入れてもらうわけではありません。
神様に差し出すものは何もありません。
神様は、私たち人間から何かを差し出される必要はありません。
全てのものが神様から出ているからです。
それゆえに、私たちは神様に差し出すとすれば、私自身、私という魂を差し出すのです。
神様が造った私の魂を神様のものとして差し出す。
そのとき、私たちは天の国に弟子とされて、神様の力に満たされるでしょう。
神様が造った私の魂を神様は喜び受け入れてくださいます。
真っ裸である私の魂を、神様が発見し、喜び買い取るために、ご自身の全てを売り払ってくださった出来事、
それがキリストの十字架です。

キリストは、私たち一人一人の人間の魂を高価な真珠、畑の宝として見出してくださいました。
私たちの魂を買い取るために、ご自身を差し出してくださいました。
このお方の高価さは、人類全てを買い取るに値する高価さです。
しかし、また一人一人の魂がキリストの魂と等しく取り引きされるのでもあります。
キリストは、私たち一人一人をご自身で買い取ってくださったのだからです。
それゆえに、私たちは買い取られた者として、占有を放棄せざるを得ません。
所有を主張できません。私は私のものではなく、キリストに買い取られた私なのです。
この真っ裸の人間を買い取ってくださったお方が、真っ裸の人間として十字架に架かってくださいました。
真っ裸の人間の買い取りを、真っ裸の人間であるキリストが、喜びを持って行ってくださった。
ここに私たち人間の幸いがあります。私の全てをキリストに使っていただく喜びがあります。

未使用の私も、使い古しの私も全てを取り出して(外に投げ出して)、キリストに使っていただく。
そのとき、私たちはこれまでの私とこれからの私を神様の意志の前に差し出します。
私の過去と未来が神様の前に差し出されます。
真っ裸の人間が差し出されるとき、
神様はその人の過去と未来の全てを受け入れ、天の国に生きるようにしてくださいます。

私たちが神様に差し出す真っ裸の人間であるとき、神様はこの私を顧み、天の国を学ばせてくださいます。
神様に従わなかった使い古しの私が神様のものとして用いられます。
神様に差し出さなかった未使用の私が神様のものとして用いられます。
真っ裸の人間である私の魂は神様に用いられることで喜びに満たされます。
全てを売り払っても良いほどに喜んで神様に従います。
あなたを買い取ってくださったキリストの喜びがあなたのうちに満たされます。
私たちキリスト者は、神様の喜びを喜び、キリストの喜びを満たされる存在です。

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