≪メッセージの要旨≫  2020年   9月 13日   聖霊降臨後第15主日

        
聖書 : ヨナ書            3章10節 〜 4章11節
              詩篇            145編  1〜 8節
              フィリピの信徒による手紙  1章 21〜30節
              マタイによる福音書     20章  1〜16節

        
説教 :  『 ビリにも同様に処遇したい 』  木下 海龍 牧師 
          
          教団讃美歌 :  67、 85、 503、 321


今日の福音は「神の国」のたとえを語るのであって、あるべき労働関係を意図して述べているわけではありません。
自分の働きの場が与えられるか、自分が求められ、しかもそれで生きる命が尊重されるかがテーマです。
イエスが描いている「人が生きて行く世界」とは、人々に働きの場を与えたいと願って、
主人が夜明けから、夕方の五時までの二回も働き手を雇うために広場に出かております。
このたとえが労働関係を述べた話ではなく、イエスの来るべき新たな世界の姿・在り様を語ったのだとすれば、
ここから我々は何を読み取れるのでしょうか。
イエスの意図した働いて生活をする社会とはどのような社会であったのでしょうか。
イエス御自身は
人は働く場を得て、生活の糧のための賃金を得て生活をするものだと身に浸みて分かっていました。
イエスは六人の弟・妹がいましたので、大工であった父親ヨセフと共にほぼ毎日、母マリヤの作った弁当持参で、
紀元七年から二十五年までの十八年間、ヘロデ・アンティパスが、
ナザレの南に歩いて三十分のほどの所にあるガリラヤの首都セフォーリスの再建工事に携わりました。
その途中に父ヨセフが亡くなり、
イエスは工事が終わる紀元二五年まで各地方から集められた職人に混じって、工事現場で働く中、
雇用と労働についての知見を深め、人間形成が為されていったと推測されます。

 雇用は雇人側の必要を満たすだけではなく、働く人の必要をも満たすものです。
ただ一時間だけ働ける人にも、「あなたたちもブドウ園に行きなさい」と言ったのは、
雇用・働く場が贈り物でもあることをイエスは強調するためです。
単純に自分の労働力を時間単位で商品化するだけではなく、
それは招きであり、喜びであり、生きる糧を得る場を持つことなのです。

 早朝から働く人には働き場は贈り物ではなく賃金を得る手段に過ぎないと捉えております。
たった一時間しか働けていない人が一デナリ得たのだから、
「一日中、労苦と暑さを我慢した」者がそれ以上を手にして当然であると思い、ブドウ園主に不公平だと訴えた。
それは普通に起こる心理でしょう。
この譬えが普通の雇用と労働の話であれば、早晩にこの労使関係は破綻して生産現場は混乱に陥るでしょう。
過ってのソ連連邦の農場や工場の状況からたちまちに後進国に落ちて行ったことからも容易に想像がつきます。

イエスは自分自身がこの世に於いて新しい労使関係が形成された国造りを目指したわけではありません。
新しい世界の到来を熱望して、「天の國」、「神の国」、「永遠の命」については熱く語られたのです。
それは今の世界だけでは人の生涯は完結しない。
だからどんな労働をしようが自分の心が平和と喜びを体験する道を歩むべきだと。
単に一時間幾らの労働を考えるだけの仕事ではなく、生きることが尊重されて、悔いのない今を歩め、と。
仮に今はそうでないとしても、そういう社会を望み見て今ここで生きようではないか!と願っていたと思います。

 そこで葛藤し挫折に当面している純な若者たちにエールを送っているのがこの譬え話なのです。
死が近い将来にある私のような老人相手ならばもっと別の話をされたと思います。
(ここで、最近読んだ書物から幾つかのエピソードを説教内で紹介します。
   生田誠著「げいさい」p311文芸春秋 2020年8月10日発行 )
これらの引用から私は何を言いたいのか、と自問していますが。

純粋なものを求めて、のたうち回っているこれらの青春に
・・・飛躍的だが、神の祝福のあらんことを願う気持ちで満ちている。
この世的に成功とは何なんだろうか。
食って行けるだけの収入が入ることだつすれば、それはいくらあればいいのだろうか。
生涯に一軒の家が建って、家族一家が30年から50年ぐらいの期間住めればいいと言うことだろうか。
それも悪くはないが、そんなことではないように思える。
本人たちが本当の人生を生きたと心から思える道筋を歩いたかどうかは問われなくていいのだろうか。
他人の目からではなく、本人自身がそう思える生き方は全く考えなくてもいいのだろうか。

 一時間しか働けなかったこの労働者は、
贈り物としての与えられた働きに心底感動した時間を体験したのではないでしょうか。
自分が求められて、働けるそういう労働環境の社会をイエスは描いていたと思うのです。
それが天の國なのです。

この世は他の人との差異によって自己確認をする傾向がありますが。
天の国は必要とされて祝福された働きを喜んで行っているところです。
すべてのひとに必要な働きが与えられている処です。
生きるに金がないから働くのではなくて、
仮に十分なものを与えられていても喜んでなにかの労働をするところだと思います。

創造主ご自身も、昔も今も被造物の完成を願い、それを目指して今も働いておられます。
イエスが天の国を宣べ伝えるのは、
他者や世間との優越的な自己認識の枠を解体して再構築させるためであったと思います。

ラサール神父様が目指した「新しい信仰のパラダイム」は、「神秘的、直観的に『神を知る』」ことでした。
私自身は普通に聖書を読み、書物からの学びを日々しておりますが、
時には教会の中で、さらに個人的な生活リズムの中では毎日『冥想』しているのは
こうした「神秘的、直観的に『神を知る』」体験に至るためだと言えます。
神を直接に知る。
短い人生で、これに勝る如何なる働きが他にあるでしょうか。

憐れみたまえ、主よ。
アーメン。

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