≪メッセージの要旨≫  2020年   9月 27日   聖霊降臨後第17主日

        
聖書 : マタイによる福音書     21章 23〜32節
             フィリピの信徒への手紙   2章  1〜13節

        
説教 :  『 固執せず、主の自由を生きる 』  光延 博 牧師 
          
          教団讃美歌 :  7、 121、 338、 9


 マタイによる福音書は21章では、
イエス様がいよいよ十字架につけられるためにエルサレムに入城されることから書かれています。
子ロバに乗って柔和な王として入ってこられました。
その後、神殿でいわゆる宮清めをなさられました。
激しい行動です。
「父の家は祈りの家だ。 神様の御心を求め、御言葉による力を受ける場所だ。」 と教えられます。
礼拝が形だけのものになっていたからでした。
その行動は権力者たちの怒りを買いました。

 その後、イエス様は再び神殿を訪れられ、教えておられた。
そこへ権力者が近づいて来て言います。
「何の権威でこのようなことをするのか。 だれがその権威を与えたのか。」
彼らはこう思っています。
「自分たちはこの世の権威を得ている。 そして、自分たちが統治しているから秩序が保たれている。
   ナザレのイエスはただの人で田舎者で何の権威もないはずだ。
   このような行動は許されない。」
彼らは人を責め立てるために近づいて来ました。
一方、イエス様はいつでも愛するために近づかれます。
ここでも彼らを愛し真実を諭す言葉をかけられます。  

 御子イエス様はそもそも着想、発想が違いました。
罪の人間はどちらが偉いか、上か下か、権威があるかを考えます。
けれどもそうではない、とイエス様は言われる。
人間というものは皆、神様の権威で生かされている。
イエス様は神の子、神様ですので、御父から権威を受けておられるお方ですが、
イエス様がこの世界に来てくださったのは、
「人間とは何か」をご自身の全存在を通して明確に示してくださるためでした。
イエス様のお姿、み言葉から私たち人間がどういう者であるかが分かります。
私たち人間は、御父に生を与えられ愛されている存在、尊厳に輝いている存在、
ご愛を受けまたそれを映し出すべく権威を与えられている存在であることを教えてくださいました。

 イエス様は彼らに質問されます。 
すぐに答えを差し出されません。
もしすぐに答えれば、自分で考える恵みを妨げることになるからです。
問い返すことによって、自分を生かしている、人間を生かしめている本当の権威のことを考えるよう促されます。
誰かに教えられたことを、なにも考えないでただ信じるということではなく、
自分の存在をもって「神様と私」のことを思い巡らす。
そして、自分を今その立場に立たせているのは誰かを考える。
自分が思っているように本当に自分の力で生きているのか、その地位を勝ち取ったのは自分の力か。
そこで自分の好き勝手してよいのか。
威張っていることができるのか。

 イエス様は、「御父はインマヌエル(神様は我々と共におられる)である」と教え続けて歩かれた。
そのみ言葉を自分の脚下で感じ取る。
そこにあるこの私のいのちの神秘、尊厳を、本当の権威を、愛されていることを悟ることが大切です。

 その原点を見失う時、何の権威で自分は生かされ保たれているのか分からなくなる。
存在の虚しさに囚われたり、この世的な権威づけを求め不安に囚われたり、
この世の権威やこの世的な能力などを基準に互いに比較したり、挑み合ったりすることもある。

 イエス様に問いかけられた権力者たちは、どうしたでしょうか。
洗礼者ヨハネについての認識のことでも、人の目ばかり気にしている姿があります。
自分の地位を守ること、またそれが強くなることだけを求めているからです。
そして、考えることを止めにして「分からない」と答える。
へたに答えないほうがいいだろう、と。
あるいは、分からなくてもよい、考えたくもない、自分の名誉を守ることだけでよい、と思っている。
彼らは本当の権威を忘れ、神とか天とか人とか罪とか言っている。

 この世的な権威というものはいつでも無くなることができます。
けれども、私たちは絶対に確かな神様に根差しています。
そこを知るなら、この世のそれぞれの立場、役割を、与えられた使命として大切にすることができます。
彼らも与えられた働きを神様から与えられた分としてわきまえ、そのご愛に即して人々を導いていくことができるでしょう。
イエス様は本当にどの人も活かすようにお働きくださっている。

 イエス様からの問いはいつも出されている私たちです。
「あなたに権威を与えておられるのは誰か」 と。
そのようにして、イエス様は、根元から本当にいきいきと生きる道へと、
神様のお心を大切にしつつ歩む道へと導いていてくださいます。
権力者たちは問いかけられたのに結局考えることをしませんでした。
招かれたのに行かず拒否する人と、招きに応じて御許、原点に立ち帰る人のことが
続きの「二人の息子のたとえ」で語られます。
ぶどう園で働くことは、神様の本来の祝福で過ごすということです。
自分自身と、与えられた素晴らしい賜物を活かし、働くこと(=生きること)ができます。

 また、今日のフィリピの信徒への手紙には、
イエス様は自分を無にして人に仕えていく神様の僕であったことが書かれていました。
イエス様と一つとされている私たちも僕なる主と生きている。
自分の力に固執して歩むのではなく、
権威を神様から受けていること、救いが保証されていること、この私が認められていることを覚えたい。
この人間社会で認められなくともよいのです。
イエス様と神様の御力で歩めること、この世から自分から解放されて、歩むことができます。

 私たちの命も人格も個性も極めて尊い。
そして、一人ひとりに権威が与えられている。
自分もそこに生きる、他者にもそのまなざしを向けていく。
この週も自分を大切に、他者を大切に歩んでまいりましょう。

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