≪メッセージの要旨≫  2020年   9月 6日   聖霊降臨後第14主日

        
聖書 : エゼキエル書        33章  7〜11節
              詩篇            119編 33〜40節
              ローマの信徒による手紙 13章  8〜14節
              マタイによる福音書    18章 15〜20節

        
説教 :  『 心を一つにして 』   木下 海龍 牧師 (代読説教:小谷兄)
                                      
          教会讃美歌 :  174、 308、 374、 392


 「新型コロナウイルス感染症流行の終息も見通すことが出来ず、
 日々の暮らしへの不安は高まりつつある中で、為政者の辞任の急報があった。
 私たちの生きている世界は変化し続けており、
 この世に属する力でいつまでも確かなものなど何一つ無いことを改めて思い起こす。
 不確かなことばかりの日々、
 戸惑いばかりの日々の中で、私たちに課された重荷はただ増すばかりのように見える。
 私たちはどこに自らの思いを向け、どこに希望を見出せばよいのだろうか。」
             (JELC田園調布教会李明生牧師の8月30日の黙想前文より引用)

 今日のテーマは教会生活を混乱に陥れる罪の始末が論じられています。

 レビ記 19:17 心の中で兄弟を憎んではならない。 同胞を率直に戒めなさい。
           そうすれば彼の罪を負うことはない。
      19:18 復讐してはならない。 民の人々に恨みを抱いてはならない。
           自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
           わたしは主である。


このレビ記の言葉を背景にして今日の教えが展開されております。
イエスはこの律法を基にしつつもその時代の限界の中で、イエスは別の地平へと我々を導いておられます。
此処で述べられている二千五百年前のレビ記の内容は、
今日では企業コンサルティングでは、社内人事運営の中では通常に使われている基本ルールの一つです。

15節の「いさめる」とか「忠告する」と訳された
言葉「エレンコー」には「光にさらす、明るみに出す」の意味もあります。
罪を犯した兄弟を「戒める」とは滅びを望まない神の愛へと向けさせねばならない、との思いがあります。
レビ記の 「彼のゆえに罪を身に負ってはならない」 は
「罪を犯した人を見たとき、その人を止めようとしないなら、その罪を暗黙のうちに容認したことになり、
  その人と同罪になるが、そのようなことがあってはならない」 の意味でありましょう。
マタイはこれを省略しております。
旧約聖書本文を引用して根拠にしながら、その一部を省略するのは幾つかの立場があるでしょうが、
その一つに時代感覚が為せる場合もあります。
聖書の言葉に従いつつも、時代感覚の中で表面化しないでおく。
それも健全な時代感覚である場合があります。
他方では誤った時代錯誤もあります。
アメリカ合衆国内でも原理主義者たちが進化論を認めず、いまだに天動説に固守している教派もありますが、
それによって自分達こそが聖書の神さまを守っているとの錯覚に陥っているのではないでしょうか。
聖書の神さまは人間によって守られねばならない存在ではなく、崇め信じられるべき存在なのです。

 18節以下は、イエスが新たに強調している箇所であります。
それは性急に裁きの結論を出すことなく、すべて祈り心で処理するようにと教えておられます。
二人、三人が心を一つにして和解を求めなさいと!!
そこにはイエスご自身も参加して執り成し、一つへと導いて行かれると。

それ故に教父オリゲネスは 「あなたの祈りが祈りになるように修練しなさい」 と助言しております。
司祭や牧師は礼拝の中で条文化した祈りを捧げます。
式文を読み上げていますがそれが祈り其のものになるようにと言っているのです。
牧師さんによっては、その日の説教の続きを述べているような祈りをなさっているように感じたりもします。
典礼書に書かれた定型祈祷文であっても、間違いなく読み上げるだけではなく、
書かれた文字を媒介にしつつも、文字を超えた「祈り」そのものになるために、
祈りの声そのものへと移譲してゆく修練は、祈りを捧げるものにとっては重要であります。
祈っている状態になることが大切であると教父オリゲネスは指摘して教えておられます。

 ラーサール神父は、長く続いた世俗世界の中で
形骸化した我々の信仰を生きた信仰への回復を希求しておっしゃったことは
 「新しい信仰のパラダイム勃興のためには、神秘的・直観的に『神を知る』ことが欠かせない」 と。
これはある種、長く続いてきた教会内の教えや伝え方に対する反逆的でもあるのです。
それで一時期、カソリック教会の上層部や教会教理を司るバチカンの部署からは、
ラサール神父は孤立させられ窮地に追い込まれました。
けれども第二次大戦の敗戦とその後の世俗化によって疲弊したドイツ国内の諸教会から
彼を支持し、彼の冥想指導による信仰回復を果たした多くの同僚や信徒に励まされて、
彼の霊性運動は彼の死に至るまで深く熱く広がりました。
ドイツ国内で指導の最中に亡くなられ、
遺体は東京に運ばれて四谷イグナチオ教会で葬儀が執り行われました。
地上で心を一つにする祈りの集団の必要性を述べ伝え、実践し、人を育てて来られました。
92歳で亡くなった晩年の20年ほど、
その末席に下品(げぼん)であった自分が居れた幸を感謝せずにはおれません。

 長い教会の歴史の中で、その時代にはある種の賞味期限が来ているものもあるはずです。
陳腐化した制度やその導き方を改革しようとすれば教会を乱すものだとされかねません。
その場合には一概に裁いて排斥するのではなくて、
祈りの場になって、主の臨在を願いつつ、心を一つにして深く祈っていく中で、
疲弊した暗闇の先に、闇から抜け出す先が見えてくるものです。
そこには必ず、
 「わたしもその中にいるのである」
と主イエスは約束されました。
  
   憐れみたまえ、主よ。アーメン。

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