≪メッセージの要旨≫ 2021年 1月 17日 顕現後第2主日
聖書 : サムエル記上 3章 1〜10節
詩篇 139編 1〜18節
コリントの信徒への手紙T 6章 12〜20節
ヨハネによる福音書 1章 43〜51節
説教 : 『 あなたは神の子です 』 木下 海龍 牧師
教団讃美歌 : 268、 338、 191、 501
「あなたは神の子です。」 とナタナエルは告白しました。
何があったのでしょうか、ナタナエルをして、この告白をさせたのは何だったのでしょうか。
人の扇動には迎合することの無い彼が、理性と経験値からだけに基準を置いて行動する彼が、
イエスに出会って 「あなたは神の子です」 と告白するに至っているのです。
ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、イエスは彼のことをこう言われた。
「見なさい。 まことのイスラエル人だ。 この人には偽りがない。」 と。
イエスが自分の在り方をズバリと言い当てたことに驚いてナタナエルが
「どうしてわたしを知っておられるのですか」 と聞き返します。
するとイエスは答えて言います、
「わたしは、あなたがヒィリポから話しかけられる前に、イチジクの木の下にいるのを見た」 と。
するとナタナエルは心を躍り高ぶらせて応答します。
「ラビ、あなたは神の子です。 あなたはイスラエルの王です。」 と。
ラビ、神の子、イスラエルの王 と言った名称は、
ヨハネ福音書が書き残される100年前後の教会内ではナザレのイエスをどのような呼称で呼び、
位置づけるべきなのかが論議され、実際にいろんな呼び名が存在しておりました。
その中の主な呼び名がここで紹介されている、とみて良いでしょう。
イエスとナタナエルとの最初の対面の段階ではこの呼び名が出てきたかどうかは一考の余地があるでしょう。
しかしながら初めにイエスがナタナエルに言った二つの言葉は
実際にイエスがナタナエルに向かって言った言葉だと受け取っていいでしょう。
四つの福音書全体からイエスのご生涯を見るならば、
ナタナエルに向かって言った二つの言葉くらいは普通に言えたはずです。
イエスはそのご生涯に於いて、接触による癒し、遠隔治癒、言葉による癒し、
イチジクの木を一夜にして枯らし、水の上を歩き、5千人の給食などなど・・・。
多くの奇跡を挙げることが出来ます。
これらとは別に、最初期の弟子を召し出す場面では何があったのか。
そのことを知る箇所が今日の聖書記述です。
イエスがヨハネから洗礼を受けた後に霊に導かれて荒れ野に行き、
四十日間、昼も夜も断食修業をなさったとあります。
四十日間の断食修業を済ませたその直後に、強烈で熾烈な悪魔の誘惑を受けたが退けた。
そのことは超越的な力量を人間イエスが獲得して身におびた証拠を
我々に語っているのが四十日間日の断食修業とその後の悪魔を退散させたくだりであります。
今日の聖書個所に戻りましょう。
「イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て」・・・
イエスに力量があるとは、自分の外に存在する、対象としてのナタナエルを見ているだけではないのです。
イエスはナタナエルを見た刹那にナタナエルと不可分に一つになって彼ナタナエルを迎えたと読めます。
イエスが40日間の試練修練を終えたとはそういう境地に至ったことの表われなのです。
そのイエスから照射してくる光のようなものを直観的に受けたナタナエルもまた
イエスへの十全な告白でもって向きあったのです。
平凡な私共であっても、40日間の集中した祈りの修業をするならば顕著な何かを身に付けるものです。
説明的思弁や論理だけの領域で済ませるのとは別に、
この世俗世界に向かって、人としての肉体を持って、荒野へと出でたったイエスは、
ご自分の人間として内包する霊と魂と肉体の総体でもって、この四十日間の断食修業を成し遂げた、
とマタイ福音書は記しています。
ここで井筒俊彦の言葉を借りればイエスは自覚的に「双次元的人格」、すなわち、
一つの単一の人格へと完璧に融合した二つの人格を保持する境地に至ったと言えます。
その人格でもって弟子の一人ひとりを召し出し、五人目の弟子がナタナエルでした。
詳細には描かれてはいませんが、すぐ前のフィリポに出会った場面でも「双次元的人格」で出会ったと言えましょう。
フィリポがナタナエルに言った言葉から推察できます。
「わたしたちは、モーセが律法に記し、予言者たちも書いている方に出会った。」 と。
この言葉の内容はイエスご自身が内面に持っていた自覚そのものであったからです。
これは両者に「双次元的人格」の現象が生じたと読めます。
修業とか修練とか断食とか沈潜・瞑想、神秘体験と云った言葉や実践からは程遠い場所に
日本のルター派の教会は立っているのですが、私自身そこで信仰を与えられ、育てられて参りましたので、
それはそれでいいとして、常時・日常的においてではなかったにしても、
イエスにしてもルターにしても、熱心な修練や祈りへの集中があったことを我々は忘れてはならない。
今日においても、人が信仰の領域に招かれ、イエス様と三位の神様の働きに感動することがあるのは、
まさにイエス様の「双次元的人格」による慈しみの働きが注がれているからにほかなりません。
その真の神であり真の人であるイエスの上を「神の天使たちが昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
イエスご自身が神の家そのものであり、神に至る門そのものなのです。
イエスは言われました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 と。
文字の説明を超えて道であり、真理であり、命であるイエス様に繋りましょう。
イエスよ、あなたは神の子です。
憐れみたまえ、主よ。 アーメン。