主体的な自立を求め自分の考えをしっかりと持って生きつつも、ひれ伏して拝する存在を求めて、その出会
いを願いながら暮らしております。
東の国から訪れた天文学者たちは、自分の考えをしっかりと持って行動した結果、母マリアに抱かれた幼子
に出会って、ひれ伏して拝んだのでした。東の国からの旅は、人の人生の旅に喩えられるでしょう。その人生の
様々な事柄が彩なされ、かつ続いてゆく最中で、その動機はともあれ、ひれ伏し拝むべき出来事を体験したの
でした。
別の言葉で言えば、それは神秘体験であり、至福体験でもあったといえます。さもなければ、学者たちが、ヘ
ロデ王とも堂々と謁見できた彼らが、ヘロデ王にはひれ伏し拝することもなかった彼らが、訳も分からずに、ひれ
伏し拝することはあり得ません。そこには何か、自分の命を根源から支えている存在にまみえた、というほかはな
い命の根源に出会った畏れ体験が彼らを捉えたに違いありません。
その出来事を記憶し年ごとに伝えようとして、教会暦に組み込んで、顕現された主を覚えて礼拝するのが顕
現主日です。教会は2022年を歩み始めた今日、顕現された主イエスを自分たちにも今まさに顕現される
礼拝を捧げているのです。
天地創造の神が宇宙的な出来事として、御子の誕生を東の天文学者たちをベツレヘムへと招き寄せたよう
に、我々もまた今朝この礼拝に招かれているのです。
パウロは告白しております「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」と。
一般的には、神が存在することや、神の計画は、普通、人には秘められたままにあるものです。それらを探ろ
うとしている営為の一つとして、占星術が用いられて来たのです。学者と言われる職業は、さらに正確に、はっ
きりと神の御計画を示すために日夜研鑽していたのであります。
この天文学者たちは、いつもとは違った星の出現とその運行の意味を探っている過程において、仮説ををたて
て、学者として自分たちの仮説を確かめるために旅に出たのでした。
聖書が明記しているのは、御子の誕生は、一つの民族や種族だけにかかわることではなく、人類全体にもた
らされた啓示であるのだ。ということです。
パウロが「啓示によって」知らされたと言っているのは、我々の思索や祈りの結果捉えた内容ではなく、神様の
側からの一方的なお示しによって、初めて知らされ、理解できる内容であった、と言っているのです。こちら側に
とっては、思いがけない時に、思いがけない有様で示されるものなのです。
ですから啓示には驚きと怖れに襲われて、自ずと、ひれ伏し拝する外はないのであります。
昨年の5月から月一回の「日本キリスト教史」明治・大正・昭和につながる第一世代八人の代表的な人
についてZoomによる学びの機会を得ました。講師は日本キリスト教団千代田教会牧師の戒能信生先生。
私が聴講できたのは、矢嶋楫子、新島襄、海老名弾正、植村正久、柏木義円、内村鑑三、新渡戸稲造
の七人でした。矢嶋楫子のほかは全員牧師または神学校・大学の先生だった人々でした。
私が内心驚いたのは、彼らのほとんどが、キリスト教信仰に入るきっかけは、いわゆる自分自身ではどうしよう
もない自分の罪がイエスの十字架の贖いによって、赦され、解放された体験を契機にしてではなかったのです。
もちろん彼らが生きた生涯全体から見ますと、キリストの十字架による贖罪信仰の中で生き、立派な信仰者と
して、また実践者として生涯を送った人々でありました。
ただし、入信のきっかけというか、動機は違ったものでした。
1,海老名弾正 text p3
「輪読おわって、先生、至極荘厳なる態度を示して祈祷について一言したいことがあると言われる。
粛然として口を啓き祈祷(prayer)は第一、我々造られたる者が造物主に対しての職分であ
る。この瞬間霹靂一聲(ヘキレキイッセイ)、窓及び室を照らし、電光は我々を撃って粉砕した。
私は叫んだ、職分でしたか、職分には私の膝も腰骨も屈します。私はこの職分を怠って居ました、
すみませぬ。・・・過去十数年の事柄が瞬間私の脳裡に繰り返された。私は平身低頭して頭をも
たげ得なかった。・・・先生さらに語を加えて、第二、祈祷はcommunication with God と言
われた。神との交わり、何と有り難い事である。・・・日本天皇の一言を聞きたい、又親しく一言を
奏したいことは中心の已むに已まれぬ願いである。それさへ叶わないのに、宇宙の主催なる神に交
るを得るとは何と有り難い事である。粉砕され、屈服して平身低頭して居た私は、青草の甘露に
浴したるが如く台頭して神を仰いだのである。これ等の思想の経緯は瞬間の出来事であった。・・・
(後略)」(同志社人文研書蔵・海老名弾正ノート『回想録Ⅰ』
第二の回心(1878年9月頃、同志社英学校) 長い引用になるのでここでは省略します。(木下)
2,新渡戸稲造 text p8
「煎餅だとかお茶菓子を下さいまして、きわめて打ち解けたお話の場でありました・・・或る時わたし
はこういう事をお聞きしたのであります。『新渡戸先生の宗教と内村先生の宗教とは何か違いがあ
りますか。』その比較についてお聞きした事があります。その時先生はこういう風にお答えになりまし
た。『僕のは正門ではない。横の門から入ったんだ。して、横の門というのは悲しみという事である。
』こういうお答えのし振りは、余ほど新渡戸先生の特徴を出しておられるのでありますが、甚だ謙遜
なお答えでありました。・・・正門と言われたのは贖罪の信仰の事ではあるまいか。是は内村鑑三
先生の信仰の中心でありました。新渡戸先生御自身が贖罪の信仰を持っていられたかどうかとい
うことを私は詳しく知りませんけれども、先生の信仰生活の主な点は贖罪よりも悲しみという事であ
る。そういう意味で言われたのではあるまいかと思うんです。」(矢内原忠雄『内村鑑三と新渡戸
稲造』)
3,植村正久 text8-9
「私が学塾に入った時、それは初週祈祷会が開かれている頃だったが、キリスト教に導かれた。そこ
で私が初めて聞いた説教は、ペンテコステの聖霊のほとばしりについてであった。宣教師の英語は
ほとんど理解できなかった。しかし私にとっては古くも、新しくも思えるキリスト教の神概念が、ともか
くも私の魂を捉えたのだった。その概念は偉大で高尚なものであった。新しい世界が、加藤清正と
いう英雄神の崇拝者であった私に開かれたのだ。私の若い魂は、唯一にして、永遠に在りし、普
遍に在りし、聖なる恵みに満ちた素晴らしい神に襲撃された。いかなる議論もなしに、またどんな
詮索をすることもなく、私は既にクリスチャンであることを感じた。そしてまさにその日から、私は天に
います父なる神に祈ることを始めた。いかなる彫像も、画像もなしに、またどんな標識もなしに神に
祈るこの新しい流儀は、この新しい改宗者にとっておどろくべき体験であった ̄そしてそれは、日本
における最初期のキリスト教においては共通の経験だった。罪の意識とか、キリストの贖いによる赦
しが正しく認識できたのは、この最初の回心から暫くしてのことであった。」『植村正久とその時代』
第一巻679頁
私木下は、洗礼前後では贖罪信仰に感動して、納得し安堵と喜びで一杯でした。あれとこれの罪というより
は、存在そのものが内包している実存的罪、悲しみの寂寥感にたえだえの私に向かって、イエスはご自分を投
げ出された。それを受け取る外はなかった!! その後、無我夢中で駆け抜けている途中で、牧師生活10
年目が過ぎた頃から、喩えれば、身体の一部分はキリスト教から外に出ている感じが付きまとうようになりまし
た。キリストによる贖罪信仰を大事にしながら、朝夕、二つの教会の勤めに忠実であろうと励んでおりました。
頭と思考では分かっていましたが、身体は疲れはてて悲鳴をあげておりました。
本当の休息の仕方も知りませんでした。模索の中で、 祈りによって乗り越えてゆこうと思うに至りました。そ
こで気づいたことは、時間を祈りのために聖別することでした。すなわち聖別とは、この時間は神様との交流の
ために、前もって取っておくことです。時には出来ないこともありますが、牧師研修会などでは、皆さんが起きてく
る前に、一人で祈りと瞑想の時を持つこともできました。
第二次世界大戦後の青少年時代を過ごした者にとっては、主体的自己決定を大事にしてきました。しかし
他方、人間は身体を持って生きてゆかねばなりません。霊と頭脳と身体を調和した統一体として整えてゆか
ねば、この三つのバランスが崩さざるを得なくなります。その意味で礼拝の中で、額ずき拝して祈ることは、神の
前に、霊と精神と身体が整えられるものであると信じております。
40代の半ば頃には、70歳の定年までは私の心身はもたないと思っておりました。今、88歳を迎えるこ
とになる2022年に至りましたのは、神様の恵みの導きがまずあり、私が祈りの領域を体験的に知り実践し
て来た事が一つの要素ではなかったかと思っている昨今でございます。
どこから信仰に入るべきかが肝心ではなく、その人の全生涯を通して、キリスト者として築かれ、成熟して行く
道筋こそが大切である。と、信じております。
主よ、われら一同を憐れみたまえ。アーメン