《メッセージの要旨》 2021年10月 3日 聖霊降臨後第19主日   

       聖書 : 創世記          2章 18~24節  
             詩篇           8編  
             へブライ人への手紙   1章  1~12節
             マルコによる福音書  10章  2~16節
       説教 : 「 神の国を受け入れるとは 」  木下 海龍 牧師
       教会讃美歌 : 151、 352、 416、 467

イエスが群衆に教えておられた最中に、ファイサイ派の人々がイエスを試そうとして尋ねてきたのです。それに対してイエスは旧約聖書のモーセ五書からの引用によって対応したのでした。
「離縁」の問題は今も昔も当事者にとっては大きな問題ですから、それを無視できず、イエスは誠実に対応されたのでした。原則的には離縁は不幸な出来事です。さらに女性側にとっては、いつも泣き寝入りにならざるを得ませんでした。しかしながら、それでも離縁は絶対的にダメだとしてしまえば、他の問題が起きて、別の面でますます生きづらくなる可能性もあったものです。男性側が妻の気持ちを無視した自己中心性や、その時のちょっとした言いがかりから「離婚だ!!」と言い出すこともありましたので、そこは慎重に代書人に書面を作成してもらい、第三者が立ち会って納得してもらえる、しかるべき必要な手続きをしなさい。と。
モーセは離縁を許容していなかったのだが、男性側がかたくなに心を拓かず、変えられないでいるその男に、離縁状を書けと言っているのです。そうだとしても、
基本原則は「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結びあわせてくださったものを、人は離してはならない。」
普通一般的に考えても、何の問題もないところに出かけて行って、離縁一般の話をすることはほとんどないでしょう。離縁に当面して、トラブルの相談があって、初めて調停に入るなり、話し合いが生じてくるのではないでしょ言うか。
離縁のトラブルは、「あなたたちの心が頑固だからだ」と見抜いておられます。
婚姻前の準備不足や婚姻を決める段階での判断の幼稚さなど、いろいろなことがあったとことでしょう。
しかしながら成人した大人が、縁あって、一旦婚姻生活を始めたならば、その婚姻の背後には大きな摂理や大いなる導きがあったのだとして受け止めて、その結婚生活を伴侶が亡くなるまで、結婚生活の成熟を目指して二人が深めていくのが大人のすることではないか、と思っております。
 さもないと、婚姻が一種の買い物をしたように受け取られがちになるのではないでしょうか。
商品である自動車の買い物をした場合でも、その車の癖や、長所、ハンドルの具合とか、ブレーキの利き具合などは、その車の癖を知って、必ずや、自分が手に入れた車の機能に慣れたうえで、快適に乗りこなすのだと思います。 私の体験では、イタリヤ製のプジョに乗り慣れるのに、戸惑った経験がありましたが・・・。
婚姻は車を買うのとは違って、運命を共にする共同体を形成して行くものではないでだろうか。それは二人が一体となることなのだと、改めて今日の聖書の言葉を聞きなおしたいと思います。

 イエスは目の前に生きている人間が営む世界内問題や病とそれから来る差別に正面から対応して来られました。イエスの公生涯は3年間程の短い期間でございました。
弟子を育てて行く課題も含めてさぞや多忙であった事でありましょう。

 イエスは自分に残されている時間の短いことを自覚しておられました。最も理解して、信じてもらいたかったことは、人々が「神の国」を心から受け入れることでした。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。「神の国」とは目に見えない形而上の真理を全身全霊で宣教して来られたのです。それでは「神の国」を知り信じるとはどういうことでしょうか。
神は我々を愛してくださっている、と信じて、神様を全面的に信頼して地上の生を私どもが生き抜いてゆくことです。そんなことか!と思うかもしれませんが、ここで、私が聞いた一つの例を紹介しましょう。
伊藤亜紗(いとう あさ、1979年5月18日 - )は、日本の美学者。 専門は美学、現代アート。 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授、東京工業大学環境・社会理工学院社会・人間科学コース教授。 博士(文学)。 ラジオ番組で聞いた話を一部紹介しましょう。
 <伊藤さんの経験談>
 哲学の思考では言語を介して理解したり表現したりするのだけれども、言語では巧く伝わらない領域もあるのではないかと、触覚による意思疎通による聞き取りや、身体体験による伝達の道、その領域の研究している人です。実践体験の一つとして、全盲走者の伴走役を普段からしている方です。輪っかのロープを双方が持って走る補助をしているようでした。 全盲走者がいうには、両者の息があって走っていると道の状態が見える、と言うそうです。伊藤さんの自己理解では、急な坂道に差し掛かると、自分はどうしようか、道を変えようか、このまま走り続けようかとか、そうした緊張した思いがロープから伝わって行くのではないか。と。
或る時に、自分も体験のためにと、自分自身が目隠しをして伴走者のロープに繋がって走る体験をしたそうです。最初のうちは恐ろしくて、身がすくんで足が前に出なかった。しばらくしてから、これではしようがないと諦めて、伴奏者に一切を委ねたて走ったところ、すごい快感だった、それはその人を100%信頼する快感だった!と語っていました。普段、会話で使っている信頼と言った言葉内容は全く表層的なものだと思ったそうです。百パーセント任せる快感、自分の心身の全てを相手に預ければ、相手のすべての情報が自分に入ってくる体験だったそうです。改めて信頼することの奥行を知った、と。視角的な人間関係から、触覚的な人間関係へ。
  生後間もない二歳くらいまでの嬰児は、母親の胸の中に抱かれて温もりや触覚を通して親からの情報すべてを受け取るのだと思います。それゆえにイエスはしばしば天の國は幼子のごとくに、受け入れなさいと仰っているのだと思います。
信頼は安心とは違うものである。                           
安心は不測の未来を安心したい側が、一方的に管理をしたり相手の行動を拘束する傾向があり、
信頼は将来のことは不確実だけれども任せきるところに、ダイナミックな力強さが生じてくるのではないか。

主よ、憐れんでください。信頼して飛び込む者を主の懐に受け止めてください。アーメン

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