《メッセージの要旨》 2021年   10月 31日   宗教改革日

      
聖書 : エレミヤ        31章 31~34節
           詩篇           46編
           ローマ信徒への手紙  3章  19~28節
           ヨハネによる福音書   8章 31~36節

      
説教 : 『 心理は君に自由を 』   木下 海龍 牧師 ZOOMによる説教
            
        教会讃美歌 :  298、 453、 245、 374

1517年、M.ルターによって始められた宗教改革を覚えて、記念する日曜日です。

神の前にあるべき教会と国の姿を求めて、ルターは「我れ、確く信ずる」と当時の教会の改革が始まったのでした。その改革は成功したのか、それとも、教会を分裂させたのか。それは別に論ずるとして、宗教改革は終わったのではなく、今も継続する課題を教会と信仰者自身が自らの課題であると捉えている事柄であると言えましょう。

<日本福音ルーテル教会のホームページ> から一部を引用して学んで行きましょう。

 1517年にマルチン・ルターの宗教改革によりドイツで誕生したルーテル教会は、ドイツだけでなく北欧にも広がり、国民教会となりました。その後、アメリカにも渡り、更にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどに至って今日全世界に存在するようになっています。

マルチン・ルターの宗教改革は当時の16世紀のローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを聖書に基づいて訴えたものでした。神がイエス・キリストの十字架と復活によってのみ、私たち人間の罪を赦し、人間はイエス・キリストにおいて示された神の恵に基づいて生かされていくことを強調した教えでありました。ここから、ルターの有名な言葉「聖書のみ、恵のみ、信仰のみ」 という、宗教改革の三大原理が生まれました。

この原理に基づく信仰と改革への参加を当時の全教会に呼び掛け、賛同した同じ信仰を持つ者たちと、それらの教会において、教義、制度、慣習の必要な改革を徐々に実施していきました。信仰上も、さらには政治的にも、対立の時代がしばらくつづき、宗教改革に基づく、ルター派の教会は、その後、ドイツから 北欧に広がリました。

 < 日本福音ルーテル教会 >

 日本福音ルーテル教会の最初の礼拝は、1893年の復活祭にアメリカの南部一致シノッドから派遣された宣教師シエラーとピーリーにより、九州の佐賀で行われました。これが日本でのルーテル教会の伝道の始まりです。

伝道の手段としては、信徒教育のためにルターの著作による「小教理問答」の翻訳、またルーテル教会は「み言葉による礼拝」による教会形成を中心にするために「礼拝式文」の出版、伝道の担い手と日本人による教会組織の早期実現のために牧師養成、そのための神学校の創立が重要なこととして手掛けられました。

初期の教会の歴史に於いても、伝道の業は教育事業とともに行われました。熊本には牧師養成と男子の青少年の教育を目的とした九州学院、女子教育を目的とした九州女学院、更には各地の教会の付属施設として幼稚園による幼児教育の分野での教育事業で貢献してきました。

社会福祉の分野においても、熊本における慈愛園、東京での東京老人ホームを始めとして、開拓的働きをして、日本社会のために貢献してきています。

1953年以来、在日ルーテル系ミッションの合同運動が起こり、フィンランド福音ルーテル協会、オーガスタナ・シノッドは合同し、さらには1963年には東海福音ルーテル教会も合同して、新しい日本福音ルーテル教会を発足させました。

< 教義 >

 旧新約聖書が信仰と行為の唯一明確なる規範たることを主張し、信条として使徒信条、ニケア信条、アタナシウス信条、アウグスブルク信仰告白、同弁証論、大・小教理問答、シュマルカルド信条、和協信条を採用します。

ルーテル教会は信仰の本質において一致すれば、その他の礼拝形式や教会制度・組織の一致を必ずしも求めませんが、礼拝における信仰生活の育成と、そこにおける神のみ言葉の重要性を強調するために一定の礼拝式を共用します。 また、信仰教育を重んじ、特に小教理問答を通して信仰と生活の訓練を図ることを伝統的に受け継いでいます。

今も継続する課題を教会と教会員自身が負っている。と先ほど述べましたが、御子を遣わされた神を信じ、御子を己の救い主として信じ受け入れることなくしては、宗教改革は16世紀に起こった歴史的出来事としてだけで終わってしまします。自分自身の生き方として受け取りなおすことが信仰者の姿勢であります。「聖書のみ、恵のみ、信仰のみ」の宗教改革の三大原則を信仰者一人ひとりの中に受肉してゆく作業が期待されているのです。その意味で、ルーテル教会は、優しさの側面と、厳しい側面とがあるのではないかと、常々思って参りました。

富士教会も属していた東海福音ルーテル教会の式文には礼拝式の中で、必ず十戒を唱えて罪の告白をしておりました。そのたびに私の心中では「そう言われれば自分は罪人であるのだ」と言語上の認識としては、分かってはいても、心の内側では、十戒を唱えながらも、悔改められないでいる自分を感じておりました。

聖餐式に於いても然りでした。カソリック教会の教えでは、聖別されたパンと葡萄酒はイエス・キリストのお体と御血に完全に成る、と教えます。仮に信者に確信がなくても成るのです。残った場合は葡萄酒は司祭がすべて飲み干さなくてはなりません。残されたパンは聖壇前の特別な箱の中に納めて聖別されたイエス様の存在を示す灯りを灯されています。実体変化です。そこには課題も生じます。※

カルバン派などの日本基督教団では、聖餐式はイエスの贖いの業の記念式である、と理解します。

ルーテル教会は、信じて頂いた聖餐式のパンと葡萄酒はイエス・キリストの真の体と血を受けたことになります。信仰をもって頂いた信仰者の体内を血液によって運ばれ巡って、その人を浄め、聖別し、イエスとの一体性を体験するのです。そして仮に聖餐式のパンと葡萄酒が残った場合には、それらは元の物素に戻ると理解されています。
従って、ルーテル教会では私自身の信仰が常に活性している事が期待されているのです。その支援として礼拝ごとに自分自身の信仰をその日の御言葉によって吟味され、赦され、神に受容されていることを体験するように勧めるのです。みことばの説教と聖餐式ごとに神のリアリティ・実在に包まれるのです。
ただ単に観念化された言葉は、(それが聖書に書かれている歴史や、イエスの生涯について述べられた記述による知識が増えたとしても)神が直接に語ってくる言を聞き取ることを妨げます。
聖書の言を生きた神の言そのものとして、自分の心と魂を揺り動かし、立ち上がらせる神の声として聴きとる修練は、諸々の思索や言語作用を介せずに、神の前の沈黙に入ることによって聴きとれるのです。主日礼拝ごとに、また日常のどこかで、抽象言語の世界から離れて沈黙に入る所作が大事にされるのです。それが瞬間であったとしても、神と共に在る甘美な領域へ招かれた体験になり、忘れがたく尊い経験をすることになるであります。それは、「私は真理である」と宣言されたイエスがあなたを自由にされた瞬間なのです。    憐れみたまえ、主よ。アーメン。

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