《メッセージの要旨》 2021年   11月 14日   聖霊降臨後第25主日主日

      
聖書 : ダニエル書      12章 1~ 3節
           詩篇           16編
           ヘブライ人への手紙  10章 11~25節
           ヨハネによる福音書  13章 1~ 8節
      
説教 : 『動かされないようにしっかり立つ』  光延 博 牧師 
            
        教会讃美歌 :  298、 332、 336、 328

 壮麗な建造物を目の当たりにした時、その素晴らしさに驚嘆したことがあられると思います。神様に造られた人間の素晴らしさ、またその人間が作ったものの素晴らしさがあります。神様を賛美せずにはおれません。弟子たちもまた、エルサレム神殿の荘厳さ、美しさを感じています。そのことで神様に心が向けられ、神様への賛美とその慈しみの中にある自分たちを覚えられることは人間の側の神様に対するまことの応答でしょう。けれども、背後におられる神様を見ず、その物自体を賛美し「それがあるから自分は大丈夫だ」ということになってしまったり、自分たちの欲を形にしてそれを賛美すること、結局のところ自分を賛美しているに過ぎなくなってしまうならば、それはもろく崩れ去るものを土台に歩むことです。

 聖書にはそのことに関連する記述があります。神様の域(天)まで行くためにバベルの塔を人間は作ろうとします。丹精込めて偶像を製作し、自分を救ってくれる神としてそれを拝むという、本質を見失った人間の姿をイザヤは描きます(イザヤ44章など)。エレミヤは神殿自体に信頼する人々を批判しました(エレミヤ7章や26章など)。イエス様は神殿内で、本質を忘れた人々の宗教行為を批判していわゆる宮清めを行われました。

 ヘロデの手による神殿は紀元70年にローマ軍によって破壊されるのですが、今日の聖書箇所はそれより前のお話です。神殿の歴史を少し振り返りたいと思います。最初に建てられたのは紀元前10世紀中頃、ダビデの子ソロモンによってでした。その神殿は紀元前587年にバビロニア帝国によって破壊されました。捕囚解放後の前516年ゼルバベルによって再建されましたが、異国との戦いで荒廃していました。前19年頃ヘロデ大王によって増修築が始まり、前9年には献堂されました。その神殿は「ヘロデの神殿を見ないうちはだれも壮麗な建物を見たことにはならない」などと言われていたようです。献堂後も増修築工事は64年頃まで継続して行われていきました。大理石に輝く華麗な神殿を見て感動したお弟子さんの「なんとすばらしい建物でしょう」の言葉に対し、それらは壊される、とイエス様は言われました。

 このマルコによる福音書13章は「小黙示録」と呼ばれます。いわゆる「終末」の事柄についてイエス様が語られたものです。終末の事とは何でしょうか。終わりに来る、最後の事があらわになる、神様の私への、私たちへの救いが明らかになる時のことです。

 イエス様が宣べ伝えられたのは「神の国」です。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(1:14、15)通りです。今、ここに、この現実にすでに来ている神様のご支配・守りを伝えて行かれました。ここに来ている神の国を見ないようにしているのは、私自身です。この厳しい現実に神様がおられるとは思いません。言わばもっと綺麗な場所に神様はおられると思ってしまいます。弱々しいここよりも、力強い理想的な場所に神様はおられる、こんな自分のところにはおられないと思います。イエス様は一人ひとりと会い、あなたの脚下(あしもと)にある現実に神様の救いはある、と言われて行かれたのです。それを受け入れた人は救われました。厳しい現実を背負った人が、イエス様のその促しによって、自分の脚下にある神の国に気づいて救われたのです。イエス様はその人に「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。見えないけれども確かに私にある神様のお力、お支えを見た、その信仰です。

自分の力で終末の、究極の事である救いに気づくことは困難でしょう。「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問い、それを頑張ってやったとしても、ここにある神の国を見ようとしないならば受けることはできないでしょう。かつてパウロやルターは、どこか遠くにあると考えた、理想を追い求めて徹底的に行ったら獲得できるという思いが粉砕された時、すでにここにあった救い、ご臨在に気づきました。パウロはこう言います。「母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお呼び(お召し)になっていた方が…」(ガラテヤ1:15小川修訳 「聖別し」とは「救いに決定し」。創造と救いは同時・永遠)と。初めから救いの神様の中に自分は存在していた、と。救いの神様の中にある私の名を神様は呼び、安心して生きてゆきなさい、わたしが共にいると言ってくださっていた、と知ったのです。この身にキリストがおられることに気づいたパウロは、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」(ローマ8:35)と告白し、何があっても救いの神様の中を、言わば「安心してジタバタしながら」(椎名麒三さん)生きてゆけたのです。また、こう言います。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです(Ⅰコリ6:19)」。我欲の私が壊されたパウロは、本当の私、神様の中に生かされ神様のものとして大切に守られている私を、現実の只中で神様と一つとして礼拝し生きました。初めからあった事が最後の事としてパウロを包んだのです。生死のすべてが神様の救いにあることが分かったのです。

 イエス様は神の国を生き抜かれました。何があっても御父のご支配・守りの中にあると。人間に十字架に追いやられて捨てられようとです。御父に捨てられたとさえ感じる思いを御父に叫ぶほどに何も隠すことも綺麗に取り繕うこともなく、あるがままの厳しい現実を御父と全く一つとして最後の最後まで生き抜かれました。

 自分を生み出し、共に痛み共に喜び、瞬時も離れないで自分を守ってくださり、天国でお迎えになられる、そのお方に生かされている自分に気づくことが救いであることをイエス様は伝えられました。そのイエス様は、弟子たちや人々がそれ以外のものに心を奪われ、救いに至らせないもののほうへ向かっていくことへの深い悲しみがあられました。

 厳しい現実がこの世にはあります。私たちにとって逃げ出したいと思う現実ですが、こここそイエス様が示された救いの神様と出会う場所です。神様は空想や理想の世界にではなく、実際の現実の世界に生きておられます。13章に書いてあることは、現在、世界で起こっていることです。罪の人間が起こしているものも有限の地球や宇宙の動きから来るものもあります。この厳しい現実の只中に、神様が共におられ、共に苦しみ、私たちを励まして復活の命を与えておられることを覚えたいと思います。この一週間の皆様の歩みの上に神様の平安が豊かにありますようにお祈りいたします。

戻る