《メッセージの要旨》 2021年 11月 21日 ―永遠の王キリスト― 聖霊降臨後最終主日
聖書 : ダニエル書 7章 9~14節
詩篇 93編
ヨハネの黙示録 1章 4b~ 8節
ヨハネによる福音書 18章 33~37節
説教 : 『 真理とは何か 』 木下 海龍 牧師
教会讃美歌 : 170、 370、 386、 470
イエスを尋問している中で、ピラトは「真理とは何か。」とイエスに問うた。ローマの最高学府で学んだ彼はイエスが言った「真理」と言う言葉に素早く反応したのです。しかしそれは中断されています。
イエスの真意をじっくりと聞き取れる暇なく、裁判官としてはイエスを訴えたユダヤ人の言い分を聞き調停する役目があったからでした。さらに、ピラトにとってはアリストテレスやプラトンの問答形式による哲学的真理探究の学び方が身についていたのです。しかしここでイエスが弁明していた「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」の真意は、思弁的に2+3=5であるとか、水の分子構造はH2Oであると即答する次元ではなくて、イエスに従い、イエスの言葉に従って実際に人生を生きてゆく最中で理解し納得して生きる領域を言っているのであります。ピラトが発した「真理とは何か」の問いは真っ当な問いではあり、それは現在の我々の問いでもあるのです。ピラトにもしもニコデモと同じく、じっくりとイエスと対話をする時間があり、そこから思索とイエスの言葉を反芻する時間があったならば違った人生がピラトにもあったのではないか。と思ったりします。
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。」ヨハネ福音書14:6
ガンディー語録に「マイ・ライフ・イズ・マイ・メッセージ」(My life is my message)
ここで、ガンディーの言葉を借りるならば「イエスの生き方が真理であり、また真理を証している」と言えましょう。
ピラトはもう一つの問いを尋問の最初にしています。それは「お前がユダヤ人の王なのか」と。「ユダヤ人の王」、この称号はハスモン時代(紀元前142-63年)から使われ始めた称号であります。この称号はユダヤ人の誇りの表現でもありました。この称号は、エルサレムが紀元前63年にローマに征服され、ユダヤはローマの支配下に置かれることになった後も、異国からユダヤを解放する王を期待する表現として生き残っていました。イエスを逮捕して告発した理由は「ユダ人の王」、つまりローマ支配からの解放を企てた者という事であったが、ピラトはイエスを目にしたとき、その見栄えのしない姿に驚いたのです。それで「お前がユダヤ人の王か」と問うたのであります。(イザヤ書53:2-3 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。)ピラトはこの人が本当にユダヤ人の王なのか、と驚き、イエスが解放の王であるとは思えなかったはずでした。
ヨハネ福音書ではピラトに向かって、イエスは三度もていねいに答えるのですが、ピラトには理解されず届きませんでした。ピラトの関心は、イエスがローマからの解放者としての「ユダヤ人の王」であるのか。そうでないか。それだけに関心があったからです。イエスは明言しておられます。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やっぱり王なのか」と言うと、イエスは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。」解放のためにローマと戦う王ではなく、真理を証しする王の権威をもってこの世に来たのだ。」と自分の役割を語るのですが、この時の、「王である」のかの文言にこだわって裁く立場のピラトには理解されませんでした。ユダヤ人の王とは解放と独立国を支配する称号としてのみ理解していたので、王であるのか、そうでないのか、が重要でありました。イエスは自分が王であることを否定はしないが、地上の王とは違った役割を持つ王である。と表明していたのです。武力で支配する王ではなく、仕える王として、真理を証しする王としてきたのだ。それ故に、父なる神からすべての権能を授かった王として、全世界の王として、時代を超えて、永遠から永遠にわたって王である、と語っておられるのです。永遠の王としての権能・権威から、実は、ピラトは逆にイエスに尋問されている場面であると読めるようにヨハネ福音書は語っているのです。ピラトもまた、イエスが無実であると知りつつも、イエスの言葉を理解して、イエスに聞き従うことの出来なかったゆえに、「真理とは何か」とイエスに問いつつも、イエスに従うチャンスが眼前にありながら、それを掴めずに終えた人生になったのです。
随分以前に朝日新聞のコラムで、池田香代子さんは 「『心の時代』というコピーだけが躍った、そのことに私たちの時代のあやうさはある。」と書いていましたが、証しするとは聖書の言葉のコピーを言ったり張りつけたりすることではなく、自分自身が生きて体験した事実から掴み取った本当の事、それによって自分は今こうして生かされているのだ、と、機会が与えられたならば、恐れず尻込みせずに、人の面前で語り、生きていることをさらけ出して存在することなのです。
例えば、十字架による贖罪論や、ルター派の「聖書のみ・信仰のみ・恵みのみ」もまたコピーだけのあやうさを感じるのは、それらを己の身内に浸みこませて、自分自身の内側から、(やはり、この世の真っただ中を生き抜くためには、結局は「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」に包み込まれるほかはないのだなあ。と、失敗や失望を経過しながら、実感的に自分のものにしてゆくものなのだと私は受け止めています。
憐れみたまえ、主よ。あなたに従うものとなりますように。アーメン。