アドベントの期間に入りました。アドベント(到来,出現など)という
語はギリシャ語のエピファネイア(出現,顕現など)と同じ意味です。
2000年前に救い主がこの世界に現われてくださり、最後に現れてくださる
ことを今日ご一緒に覚えたいと思います。21章7節からは「終末の徴」と小
見出しが付けられています。私を成り立たせ、私の中でお働きくださって
いる神様を見ない私たちはこの世の事柄に必要以上に囚われてしまいます。
そこから戦争などが起こること、また有限なものが有限なものとして終わ
りを迎えることが書かれます。イエス・キリストは誕生から十字架の最期
まで、ご自身を成り立たせているお方を父と呼びその方と共に生き抜かれ
ました。ここに救いが現わされています。イエス様が示されたように、こ
の世の諸縁が私を救うのではなく、命の出処である御父との結びつき、空
想ではなく事実ここにあるその結びつきが私たちを救います。その真理が
明らかになるのが終末です。最初から私にあったけれども私が見ていない
真理が最後に私に顕現、出現、到来するのです。
今日の聖書25節、26節には、天体さえも揺り動かされ地上がどよめき、
私たちは「なすすべを知らず、不安に陥り、おびえ、恐ろしさのあまり気
を失うだろう」とあります。有限性が明らかになります。まさに「そのと
き」(「同時に」など 織田昭)救い主が「大いなる力と栄光を帯びて雲
に乗って来るのを、人々は見る」と言われています。雲は神様のご臨在を
示します。救い主の力と栄光は十字架に極まりました。命の根源を見ない
私の天地が揺れ動く時、まさにその時に私の目の曇りが取り払われ、十字
架の救い主が共におられることがはっきり見える、救いの神様の中に私は
存在していることが私に見える、と言われています。
使徒パウロはガラテヤの人々にこう言いました。「…あなたがたには両
目の前に、十字架につけられてしまったままのイエス・キリストが公に描
き出されたのに、誰があなたがたをたぶらかしたのか」(ガラテヤ3:1岩
波 青野太潮訳)。「ボロボロの肉体を抱える私パウロの弱さの中に救い
主が生きているのをあなたは見たはずだ、弱い自分の中に生けるイエス・
キリストがおられるのをあなたは認識したのだ、それなのにどうして滅び
に至らせるこの世の力(律法主義…)にたぶらかされるのだ、そこに後戻
りしようとするのだ、悪(魔)の力に屈するな、と励まします。
救い主は弱い私たちの所に来てくださいました。有限の私たちが生まれ
死んで行くのと全く同じに、生まれ、死んでくださいました。神様を忘れ
た私たちであるのにインマヌエル(神は我々と共におられる)でいてくだ
さること、そしてパウロに啓示されたように、「私たちはキリストの中に
存在し、私たち一人ひとりの中にキリストがいましたもう」のです。その
お方は十字架の救い主です。
ルーテル教会員デートリッヒ・ボンヘッファーはナチスヒトラー下の獄
中で、いつ死刑宣告・執行の日が来るか分からない中、『善き力にわれか
こまれ』(讃美歌21 469番)を詠いました。「(5節)善き力に守られつ
つ 来るべき時を待とう 夜も朝もいつも神は われらと共にいます」と
。また、『わたしは何者なのか』を詠みます。〈村上伸訳より抜粋・要約
〉「周りの人は私のことを、自分の獄房から平然と明るく、しっかりした
足取りで、領主がその館から出てくるように歩み出る…看守たちと自由に
親しげに、はっきりとした口調で、あたかも私のほうが命令しているよう
に話し合っている…私が不幸の日々を冷静に、微笑みつつ誇り高く、勝利
に慣れた人のように耐えている、と言う。私は本当にそういう者か。私が
知っている私は、憧れて病み、もがき、色彩や花々や鳥の声、やさしい言
葉やぬくもりに飢え、怒りにふるえ、重大な出来事を待ちかねてうろうろ
し、友だちのことを心配しては気力をなくし、疲れ、祈り思索し創造する
余力はもはやなく、くたびれ果て、皆に別れを告げる用意をする。私は何
者か?後者か、それとも前者か?…私は何者か?ただひとりこう問う時、
その問いは私を嘲る。私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。
私はあなたのものだ」と。また、彼は言います。「苦しむ神だけが私を助
けることができる」と。自分ではどうにもならない、自分自身の足場が揺
れ動いているような感覚に襲われ、心はちりじりに乱れている、その私と
十字架の主が共にいてくださっている、私は十字架の主の苦しみを共にし
ている、そう彼は見えたのだと思います。上から自分を見おろす力強い、
遠く離れているようなお方ではなく、今ここにいる私と全く一つとなって
私を背負っていてくださるキリストを見たのです。処刑か解放か、この先
は分かりませんが、どうであれ「あなたは私の内面も状況もすべて知り給
う。私はあなたのもの。あなたが共にいてくださる者。」と、信頼したの
です。世は彼に処刑を告げ、彼は死んで行きました。「これが最後です。
私にとっては命の始まりです。」処刑に際し、そう言って天国に帰って行
きました。
「あなたの人生には大きな苦難がある。しかしそれが最後の事ではない。
その時わたしはあなたの元に必ず助けに行く。それをあなたは見ることに
なる。わたしはあなたを愛する御父を示した。御父はあなたと一つである。
この御心と守りが最初からあなたにあり、最後にあなたがはっきり見るこ
とになる真理である。天地は滅びるが、わたしのこの言葉は決して滅びな
い。」イエス様は、私たちの大きな苦難に先立ってこのことを語られます。
私たちは信仰をもとうがそうでなかろうが狼狽する者でしかありません。
しかし、その狼狽は滅びない神様の中にあるそれです。イエス様が前も
ってそう言ってくださっているから、私たちは「世の中の私、私の中の私
」にふさぎ込まず、神様の中で弱いまま、うろたえるまま、私と共にいて
くださる主に心を開き「いつも目を覚まして祈」って行きたいと思います。
神様は終末の救い、まことの解放を約束してくださっています。その中
の今を私たちは歩んでいるのです。