2021年   11月 7日   全聖徒主日

      
聖書 : イザヤ書       25章 6~ 9節
           詩篇           24編
           ヨハネの黙示録    21章 1~ 6a節
           ヨハネによる福音書  11章 32~44節

      
説教 : 『 初めであり、終わりである 』   木下 海龍 牧師 
            
        教会讃美歌 :  238、 371、 331、 266

<私の読書ノートからの引用> 
   末木文美士編「死者と聖性」--近代を問い直す 岩波新書 2021年8月20日 1刷
<座談会> 末木文美士(司会)・中島隆博・若松英輔・安藤礼二・中島岳志
  上掲の本では、死者のことがとても斬新な視点から述べられていましたので、一緒に考えたいと思っ  た次第です。
隆博:人間主義、人間中心主義という近代的な考え方を、見直さないといけない。動物や植物のあり      方に、もう一回学ぶことがあってもよいのではないか。デモクラシーのアップデートが必要なの      ではないか。p28
若松:「死者と霊性」は見えないもの、ふれ得ないものと対峙することになります。それは人の世界観と     言うよりも、宇宙観と言うべきかもしれません。p30
岳志:芭蕉の「よく見ればなずな花咲く垣根かな」 「なずなの中にあるコスモロジーをみているわけです    が、重要なのは「よく見る」と言うことだと思います。まさに「プネウマ」という問題ですよね。「プ      ネウマは、精霊であると同時に、息吹きそのものであるわけです。そういうものの交換を、たん     に人間同士だけではなくて、非常に大きなコスモロジーからすると、植物との間においてもやり     とりをしている。 P33
隆博:「死」というのは孤立した現象ではなく、ともに「死」というものを経験するというか、そうやって「生     きる」というのは、ともに経験することだと思うのです。だから、一人で死なせてはいけない、孤      立した死を避けることが、私たちにとっては決定的に大事なのではないか。P53
若松:死者の世界――何と呼ぶかは別にしてーーの中に生者の世界がある、それがブレイクの世界観    です。生者の世界と死者の世界があるのではなくて、死者の世界の方が大きくて、その中に生     者の世界があるというのが、ブレイクの認識だった。近代がつくった世界観というのは言語的      世界観だった。「死者と霊性」の問題は、言語ではとらえきれない世界に私たちを導いていくと      思うのです。 P58
<コロナとアガンベン> p173
岳志:アガンベンが問題視したのは、パンデミック下において「剝き出しの生」としての「ゾーエー」ばかり    が重視され、人間の「ビオス」の次元(ポリスを担う市民活動)が軽視されたことである。死者は「    ゾーエ」を失っても、「ビオス」の次元において生きている。私たち生者は、「隣人」が亡くなった後    も、その人と対話や交流を続ける。死者は存在しないのではない。死者として存在しているのだ     。パンデミック下における隔離やトリアージによる死は、この死者のビオスを希薄化させる。死者    もその隣人たちも、死のプロセスが暴力的に割愛されたことで、「あいまいな喪失」に直面する。    時間が凍結し、死者との関係構築が困難になる。p174―175
< 利他の構造 >(愛の構造) p181
  私たちの」「今」は過去の未来である。私たちは死者の未来に生きている。現在に生きる者は、過去  になされた行為の受け手である。死者たちの行為が利他的であるか否かは、死者の未来に生きる   我々の受け取り方にゆだねられている。私たちは利他的行為を行うことが出来ない。しかし、利他   のよき受け手になることはできる。死者の行為の受け手になることで、死者を贈与の送り主にするこ  とが出来るのだ。『世界は贈与でできている』の著者・近内悠太は、贈与の起点を「被贈与の気づき  」に置いている。贈与や利他は、与えることではなく、受け取ることによって起動する。私たちができ   ることは、よい受け手になることであり、そのことを通じて贈与のサイクルにすることができる。「贈与  は差出人にとっては受け渡しが未来時世であり、受取人にとっては受け取りが過去時制になる。    贈与は未来にあると同時に過去にある。」近内 歴史の中に身を置くということは、死者によってなさ  れた行為の受け手になることに他ならない。近内の言葉を借りれば、「手紙」はすでに届いている。   重要なのは、その手紙に気付き、開封すること。そこに書かれたメッセージを大切に受け止め、自ら  の生き方に反映していくこと。この時、死者は贈与の送り主となり、利他の主体となる。 
  私たちは、死者の行為を受け止めることで利他の受け手となり、未来の他者が行為の受け手となる  ことで、利他の贈り主になる。p183

  死にゆく死者が、生き残ったとしたら何をしたかったのか。何を願っていたのか。後に続いて生まれ  てくる者たちの幸を願っていたはずである。それが今だ。ゆえに彼らが主体になって出来上がった   立憲民主主義・現憲法の担い手へと我我々は押し出されているのである。
  文庫一冊をやっとのことで背嚢に忍ばせて戦地で亡くなった学徒たちは、学び舎で先生と共に、仲   間と一緒に学びたかったことは明白であったのだ。婚約者と結婚して家庭を作りたかったのだ。信じ  る自由と信じない自由を願い、考え、思ったことを自由に発言したかったはずである。自由に仕事を  選び他人にも喜ばれる仕事がしたかったはずである。
   しかし、学業の道を中断され、婚約者や家庭から無理やりに切断されて戦地へと送り込まれたの   です。そういう意味で彼らの願いが憲法に表現され明記されているのです。

< 死者の立憲主義 >  p183
岳志:「立憲」の主体は、その大半が死者である。憲法の「表現の自由」を保証する文言は、「表現の自    由」が制限されたときに味わった先人たちの苦い経験によって構成されている。憲法の主語は     死者であり、死者が関与する政治体制こそが立憲民主主義なのである。立憲民主主義とは、死    者に制約されたデモクラシーである。「死者を含む民主主義」と言い換えてもいい。憲法97条
    憲法の受け手になることは、死者からの信託を引き受けることであり、そのことを通じて、死者た    ちを利他の主体へと押し上げることに他ならない。憲法を守ることは、文言の背後にある死者の    経験値を継承し、憲法のあり方や精神を保守することである。
     私たちは、憲法の受け手となることで、死者のビオスと交わることができる。死者のビオスと交    わることによってこそ、私たちは真に立憲民主主義の主体になることができるのである。p186
<本日の福音書からのメッセージ>
  一旦は死んで、墓に葬られたラザロをイエス様は生き返らせました。それはイエスが神から遣わさ   れたお方であると周りの群衆に知らせる意図がございました。そうでしょう、葬られて三夜と四日が   経っていたのですから、常識を超えた出来事でありましたから、この奇跡を目の前で起こすこの人   はただ者ではなく、神様が遣わされたお方だと信じるでしょう。
  イエスは神様が遣わしたお方だ、このことを外すと、今日では、放置すれば、死ぬであろう怪我人    が、時に適った医師の治療によって、生かされた消息は随分と多いのであります。そして助かった   人の皆が神様が遣わした医者だったと信仰に入るわけではなく、助かった人たちもやがて年老い   て亡くなってゆかれるのです。このラザロの奇跡も同じです。ラザロも年老いて先祖の列に入って    逝きました。生存中にイエスを遣わされた神様を眼前にいただくようにして日々の営みを続けた後   に旅発ったのです。
   「死」を契機にして、「初めであり、終わりである」実在に気付き、畏敬の念を抱くことが人生の最    大肝要なのであります。そうでなければ、連れ合いや肉親が「死んで見せてくれた重大な真実」を    自らに自覚体験もなしにスルーしてしまったことになってしまいます。それはとても勿体ないことでは   ないでしょうか。

       主よ! 私どもを憐れんでください。 アーメン

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