待降節第2主日  2021125日    木下 海龍 牧師

マラキ3:1-4  ルカ1:68-79  フィピ1:3-11

ルカ福音書3:1-6    教会讃美歌 9,7.13.5

説教題「神の霊、ヨハネに降った。」   

 

 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フ
ィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、

 3:2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。

そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え
た。

そこで、神の霊と言葉に押し出されてヨハネは立ちお上がりました。歴史が大きく変わろうとするときには、神の
息吹、霊の言葉によって、ザカリアの息子ヨハネが引っ張り出されて、いやおうなしに、ヨハネは行動したのでし
た。ヨハネにその意識があったにせよ、そうした意志だけでは、歴史の中で、楔の役割は果たせません。個人的
な知見や将来への見通しだけでは、楔は打ち込めないのです。一つの評論や、見識として表現されて終わり
埋もれて行くものであります。ルターの宗教改革の前にも幾人かの改革者たちが、当時の教会の改革を訴え
出た人々がいました。彼ら自身の真摯で熱心さにもかかわらず、歴史の途中で挫折させられてゆきました。


宗教改革というと、普通マルティン・ルターの名前と強く結びついています。もちろんルターは歴史を動かしました
。しかし、ルターの成功は同時代人の擁護だけではなく、歴史的な積み重ねを待ってはじめて実現したのだ、
ということを忘れてはいけません。そこで、ルター以前の宗教改革者たちを取り上げて、歴史の流れを追ってみ
ましょう。

紹介する人物は四人です。12世紀フランスのピーター・ワルドー、14世紀イギリスのジョン・ウィクリフ、15
紀チェコのヤン・フス、同じく15世紀イタリアのサヴォナローラです。

 

1. ピーター・ワルドー (1140-c.1205 or c.1218)

 ピーター・ワルドーは、フランスはリヨンの、裕福な商人として生活していましたが、ある日財産を投げ打って宗
教家となりました。

裕福な商人が突然宗教家となる、という経緯はアッシジのフランチェスコを思わせます。ワルドーは300年後に
ルターがしたように、聖書を難解なラテン語から、現地の民衆たちの言葉に翻訳することで布教を行い、南フラ
ンスからイタリアにかけて信者を集めます。

信者たちは「リヨンの貧者」を自称し、ワルドー派(Waldensians)を形成します。

しかし、教会の支持はいっこうに得られず、ついに1180年代には教会から破門され、異端認定されてしまい
ます。以後、異端審問(Inquisition)による迫害に遭難する「リヨンの貧者」ことワルドー派の信者でしたが
、山中などに離散して生き延びます。しかし、迫害は収まらず、17世紀にはピエモンテでワルドー一派の虐殺
が起こっています。このように多難を極めたワルドー派の遍歴ですが、2015年にローマ法王がワルドー派への
歴史的な迫害を謝罪するなど、現在では1宗派として認められるに至りました。

2. ジョン・ウィクリフ(c.1320-1384

 14世紀イギリスでも宗教改革の兆しが見えます。その主導者となったのがウィクリフです。

ウィクリフは教会のもつ財産や豪奢な生活を批判し、聖書を重視することを訴え、聖書の英訳を行いました。
また、教義に関してもローマ教会やオックスフォード大学と衝突し、ウィクリフには終生逆風のなか活動しました
。彼の支持者はロラード派とよばれ、のちに封建社会を批判するワット・タイラーの乱につながります。

 ウィクリフの死後も弾圧は続き、対抗宗教改革の一環を成す1414年のコンスタンツ公会議では、ウィクリフ
は改めて異端とされ、ウィクリフの亡骸は掘り起こされ火刑に処されました。

 

3. ヤン・フス(c.1369-1415

イギリスのウィクリフの活動に影響を受け、チェコの地において一人の宗教家が頭角を現しました。

フスは、プラハ大学の神学者として影響力のある人物として当時から有名でした。フスは説教において、贖
宥状や聖職売買を批判しウィクリフの考えを広めました。当然、教皇の顰蹙を買い、破門されてしまいます。
フスはウィクリフとともに1414年のコンスタンツ公会議において異端とされ、翌年火刑に処されます。

 しかし、フスの死後、彼の考えに触発されたボヘミアの民衆たちは一斉に蜂起、1419年にフス戦争が開戦
します。しかし、フス戦争はフス派の敗北に終わり、17世紀の30年戦争によってフス派の影響力はほぼなく
なります。しかし、19世紀以降、チェック人のナショナリズムの高まりのなかでフスの評価が進み、20世紀の終
わりにはフスへの迫害への謝罪がなされました。スメタナ作曲の連作交響詩『わが祖国』の終わりの二曲はフス
をテーマにしています。

 

4. ジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498

 サヴォナローラはドミニコ会の修道士として、ピコ=デラ=ミランデラの紹介を通じて、メディチ家が治めていた
フィレンツェで活動しました。イタリア戦争によってフランス軍がメディチ家を追放すると、サヴォナローラはフィレン
ツェに於いて、神権政治を行いました。彼の教義は、奢侈を諌め、清貧を重んじる、というものでした。やがて
民衆は彼を離れ、教会からは破門されてしまいました。そして1498年、火刑に処されました。

ルターはのちにサヴォナローラを高く評価しているように、サヴォナローラの活動はのちに、ルターに端を発する宗
教改革へとつながっていくのです。

 

ルター以前の改革者たちはすべて処刑または追放になっております。それは旧約の予言者の生涯にも通じ
ております。個人的な判断では改革は必要だとは意識していたとしても、具体的に立ち上がるには、その困
難さは分かり切っていましたから、行動には移さなかったでしょう。それでも声を上げ行動に向かったのは、神の
霊が彼らに降ったからなのです。それこそが改革者の生きる道であったからです。彼らが処刑されたのは、王や
権力者、民衆にも忖度せず正しいことを霊に促されて糾弾してやまなかったからです。

 ザカリアの子ヨハネに神の霊が降って、彼はヨルダン川沿いの地方一帯で悔い改めを宣べ伝えて、悔い改め
の意思表示をした人々に悔い改めのバプテスマをヨルダン川で施したのです。悔い改めの意志表示を川に全
身を沈めて、死から再生してゆく疑似体験によって表白したのでしたです。体験した人が生涯忘れられない刻
印を刻み込んだのでした。ところが領主ヘロデはヨハネが自分にとって都合の悪いことを宣べて憚らなかったので
、斬首の刑に処してしまいました。

 イエスもこのヨハネから洗礼を受けた一人でしたが、ヨハネが処刑された直後に宣教を開始しました。そして、
2年半後に磔刑に処せられました。歴史上、真の改革者はいわゆるこの世的な幸いな人生を送った人はい
なかったのではないでしょうか。私的には何だか残念な気がいたします。

 彼らは、ただただ、神の霊に捕われたゆえに、真実の教えに促されて、 自分の損得を超えて、神の言葉に
従って逝ったのでした。

その殉教は、のちに続く我々への贈与の行為であったのです。聖書ははるか以前に我々に向けて行われた贈
与の行為を告げている手紙なのです。しかも我々一人ひとりに宛てであるのです。

 ルターに対しても1520年6月「破門脅迫の回勅」が発令されました。しかしルターは12月、ヴィテ
ンベルグ城外のエクスター門広場で、この回勅と『教会法令集』を人々の前で焼却しました。その結果、15
21年1月
、ついにルターはローマ・カトリック教会から破門されました。これまでの改革者四人の経緯から見
れば、破門は火刑にいたるのは必定な運びであったでしょう。がしかし、ルターの中には恩寵神のリアリティに
摑まった「塔の体験」によって形成された深い確信と、多くの人々の彼に対する共鳴に支えられて、一時は、「
ルター死す」の噂がまたたく間に広がりましたが、実は、匿われ、10ケ月の間、ヴァルトブルグ城で騎士ヨルク
として過ごしました。その間に、「新約聖書」のドイツ語訳を完成させたのでした。これらは大きな歴史のうねり
の中で、ルターを理解して保護したザクセン選帝候フリードリヒ賢公の存在があったのでした。ここにも大きな改
革への見えない神のみ手の働きと時代の到来の必然性を感ぜざるを得ません。

 ルターは1546年2月18日、マンスフェルト公家の銅山の権益をめぐるゴタゴタの調停を終えて帰る
旅先で死を迎えました。享年63歳。その生涯は大学の教授・彼の舘には大勢の学生が常に寝泊まりして
いました。改革運動・社会インフラの整備と教育機関や救済施設の創設、二人の娘を亡くし、晩年の20
年間は、改革の仕事もあまり順調ではなく、彼自身度重なる病に苦しみました。同時によく食べよく飲み、学
生たちや家族中で歌やボーリングを楽しみました。「罪人にした同時に義人」との言葉を残しましたが、合わ
せて人間は「病気にして同時に健康」とも言いました。ルターは家庭を持ち、家族と教会を愛して大事にし
ました。とても人間的な人でもあったのです。

 

 ルターは多くの手紙と「卓上語録」や聖書の講解書、神学著書を遺しました。それ等を真摯に読み込んで、
彼から我々に向けて、差しだされた贈り物をしっかりと受け取って、一緒に明日へ向かって生きてまいりましょう。

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