2021年  12月 12日  待降節第3主日

      
聖書 :  ゼファニア書        3章 14節 ~ 20節
            イザヤ書          12章  2節 ~  6節
            フィリピの信徒への手紙  4章  4節 ~  7節
      
説教 : 『 原点に心を向けて 』    光延 博牧師(信徒代読) 
            
        教会讃美歌 :  1、 3、 17、 16

 「救い主があなたのために、あなたのもとに来られる。だから、あなたはお迎えせよ。福音があなたのもとにある、
だからあなたは心を開きそれを受け入れて歩みなさい。」そのようなヨハネの呼びかける声があります。苦労をたく
さん抱えながら歩まざるを得ない私たちのことを神様が御心を痛めて、助けようと、ヨハネを通して今日私たちに
呼びかけてくださっています。

 

 救い主到来の道を整えるのは、私たち人間ではありません。4節から6節に書かれているイザヤの預言通り、
神様です。私たちはそれを受ける(受け身・受動態)だけ、心を開いて受け入れるだけです。しかし、これが
難しいのです。私たちには受け入れようとはしない我があります。ヨハネは神様の福音、原点から語っています。
激しい言葉使いもあります。自分の力により頼んでいるなら絶望(滅び)に向かうからです。「神の民に属して
いる」ことは神様の一方的なお恵み以外ではないと人々はわきまえていたでしょうか。恵みを見ずに、自分の力
で得たものであるかのように自分を誇り、当然の権利とし、高慢になっていないか。命を与えておられる神様を
見ないならば、命の根源を忘れた、偽り、錯覚の中を歩むことであり、聖書はそれを「死」と言います。「イスラエ
ルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生き
よ」(エゼキエル183132)と熱情の神様がヨハネを通して語っておられるのです(32)。

 

 18節にありますように、ヨハネが語ったのは福音です。福音を受け取るための「悔い改め」の宣教でした。「悔
い改め」と訳されている語は原語「メタノイア」です。神様に立ち帰る、神様のほうへ向き直す、根本的に心を
入れ替えるなどの意味があります。神様に心を向けるなら、自分とは神様に大切にされている者だという真実
の言葉を聴きます。そして、その福音に生かされる時、福音が平安と喜びの内にあって、日々の歩みに影響を
及ぼすでしょう。ヨハネは人々に生活を改めていくことを勧めています。恐怖感を与えて良い行いをさせようとす
るような思いからでもなく、良い行いをすれば厳しく裁かれないで救われると言っているのでもありません。

 

 人々の質問に、ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持ってい
る者も同じようにせよ」と答えます。私の命の原点である神様に立ち帰った時、神様にある自分の大切さ・素
晴らしさ、他者や神様にあるこの世の素晴らしさ・大切さが見えてきます。「罪赦された罪人」(ルター)である
私たち、愛されている私たちが見えるのです。だから、困っている人がいたら助けることが許されている、分かち
合うことができる、神様の中で一緒に生きていくことができます。これは太初から貫かれた神の法(ギリシャ語の
「ノモス」法則・キリストの律法)です。「人が独りでいるのは(生きていくのは)よくない」(創218)と言
われ、神様はこの世界を互いに助け合う法則(愛)で創造しておられるのです。ですから、助け合えれば嬉
しくなるような心が私たちの身に備わっています。ヨハネは、当時、異邦人に関係する職業であり、宗教指導
者たちから排除されていた徴税人や兵士たちにも、例外なく、福音に照らされている人間として、排除すること
などなく福音を語り、洗礼を施し、生活を改めていく勧めをしました。神様の中に在って、無理をしてではなく、
できることをできるだけしてくことが大切だ、と。

 

人々が自分のことをメシアではないかと考えているのに応えて、ヨハネは自分はそうではないことを伝えます。
来るべき方が「彼はお前たちを聖霊と火との中に浸すであろう」(岩波訳注 直訳)、と言います。来るべき
方が聖霊と火であなたを満たすであろう、と言い換えてよいと思います。イエス様はイエス様で、ご自分のことを
人々が崇めるようなことを厳しく退けられます。自分は、神の子だ、神だ、偉いのだ、お前たちとは違うのだなど
とは言われないのです。ただ父のみが善い方である(1819)こと、父なる神様が命を支え、お守りくださっ
ている事実を明確にお示しになられました。ヨハネもイエス様も神様を指し示されたことでは同じです。けれども
イエス様は、慈しみ深く、私たちが呻かざるを得ない底の底まで共にいてくださっている神様を完全にお示しに
なられたお方です。十字架の極みまでも、です。

 

人間の最も深いところまで共におられる神様を示されたから、イエス様は「愛なる神様の聖霊と火」で私を満
たしてしまわれたのです。私たち人間ががんばってではなく、勉強してではなく、修行してではなく、そのままのあ
なたがまるごと神様と共なるものであると、イエス様によって私たちは知らされたのです。聖霊は、最も暗黒な十
字架上でも貫かれている、どこにでも届いている神様のお力です。火は、そこからモーセに語りかけ、火の柱で
荒れ野を導き、イザヤの口に触れて罪を赦した、救いという裁きであり、古き人間である私を滅し、新しき人間
である私に復活させる救いの裁きを意味するでしょう。

 

「信仰(ピスティス)によって義とされる(信仰がない人は義とされない)」とは第二義的にはそうでしょうが、
元もと、人間の「信仰」を基準に差別する神様ではないと私は確信しています。皆の上に太陽を昇らせ、雨を
恵まれますし、事実、命を支えておられます。第一義的に、絶対の事として、「神様の真実・まこと(ピスティス)
によって義とされている」から、命が与えられ生まれて来たし、事実、生かされているのです。神様の聖なる御名
を使って人間を分け隔てることは悪から来ることだと思います。

 

人間は二分されているのではなく、イエス様の僕となったパウロが言うように、私の中に、古き人間の残骸と、
新しくされている人間という本当の私があるのです。神様の裁きによって、滅びに向かわせる古き人間が滅ぼさ
れていること、あなたは新しき人間として復活させられているという裁き・事実、そこに立ち帰ることが主から祈ら
れています。自分の力で生きているのではない、神様によって私は立っているという事実に、ご一緒に目を向け
たいと思います。

 

マルコによる福音書115節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と訳されて
いるところを、大阪、釜ヶ崎でお働きをなさっている本田哲郎神父は「時は満ち、神の国はすぐそこに来ている。
低みに立って見直し、福音に信頼してあゆみを起こせ」というふうに、「悔い改めて」を「低みに立って見直しな
さい」と訳しておられます。私たちの低みにおられる神様に共に立ち(帰り)、そこから世界を見直せ、と。メタ
ノイアし視座を変えよ、と。そしてこのように言われます。「メタノイアとは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、
怒りに、共感・共有できるところに視座・視点を移すことだと分かります。人の痛みの分かるところに、視座・視
点を移し、そこから見直してみる」ことが大切である、と。自分のことばかりではなく、他者のことも思い、弱い者
と一緒に歩んで行け、と。

 

まことに人間の低みに立ち、弱い私たち一人ひとりと共に生きておられるイエス様、その救い主が来てくださっ
たクリスマスが私たちに迫って来ています。

神様の燈火がまた一つ、皆様
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