待降節第4主日  2021年12月19日  富士教会  木下海龍

            ミカ書5:1-4a  詩編80:2-8  ヘブライ人への手紙10:5-10
            ルカによる福音書:1:39-56
            教団讃美歌 94 、96、391、95

説教題「わが霊は神を喜ぶ」       

神からの顧みを受けてザカリアの妻エリザベットが身ごもって六カ月目に、天使ガブリエルがマリアに祝福の挨拶をいたし
ました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアがこの挨拶に戸惑い驚いていると、天使はさらに言
った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと
名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と。
聞いたマリアは、急いでユダの街に向かい、神の祝福をエリザベトに伝えたのでした。神からの祝福ですから、エリザベトの
胎内の子はおどり“、エリザベトは聖霊に満たされて賛歌を歌います。ザカリアも聖霊に満たされて賛歌を歌います(67
節以下)。シメオンも聖霊に満たされて賛歌を歌います(225以下)。こうした事例から見るならば、“聖霊に満た
される”と言うことの実態が分かるのではないでしょうか。

それは、さまざまな現象の背景に隠されていた意義が人間である自分を越えた力によって悟らされ、法悦に満ちた状態
に入ったことを表す言葉であります。このような状態に導かれて入れば、誰もが歌を歌う。エリザベトもザカリアもシメオンも、
その歓喜に促されて、賛歌の歌を歌ったのです。

 ここで使われている「祝福される」と言う言葉は、二通りに使われております。一つは、ある人物に示された神様の顧み
や好意のゆえに祝福されていると言われる場合(今日の福音書のマリアのように)と、神の顧みと神の好意のゆえに神
がほめたたえられる場合(ルカ2:28 シメオンは幼子を腕に抱き神をほめたたえて言った)であります。祝福するとの言
葉は、ある人物を仲立ちにして生じる、神と人間との親密な関係を賛美する言葉であります。
 

 エリザベトに挨拶(祝福・シャーローム)する為に大急ぎで走ったマリア。聖霊に満たされ、マリアを祝福するエリザベト。
この二人の女性の姿を透かして見えてくるのは、神はこの二人を通して、暗黒の中で苦しむ人類を救わずにはおかない
神の意志を具現化しておられることであります。

「わが心主を崇め、わが霊は、わが救い主なる神を喜び奉る」

信仰の極み、信仰の神秘をマリアは告白いたしました。

恵みの神をまじかに体験して、恐れながらでも神を受容した人の信仰告白と言えましょう。

私自身がこの世を去り行くときには、自分の身体がこの地球の磁力に耐えられなくなって、地べたに横たわりながら、
心がすべての事柄から解き放たれて、澄み渡って、去って逝く最中に、小声ではっきりと、このマリアの言葉を唱えながら
息を引き取ってゆきたいと願っております。

「わが心主を崇め、わが霊は、わが救い主なる神を喜び奉る」と。それは

「身分の低い、この僕にも目を留めてくださったからです。」  

私の心が神様を意識する前に、神様の方から、この取るに足りない私に目を留めてくださいました。私の周りには、知
的に優れた人、心のへりくだった心の澄んだ優しい心根の人々が居られたにもかかわらず、神様はわたしに目を留められ
ました。なんという有難いことでしょう!!
 

「わが霊」は、人の一番深いところで、精神と身体とを調和的に結びつける役割をいたします。

普段は精神と身体だけで活動しているように感じておりますが、聖書が考えている人間の存在は「精神と身体と霊」
によって成り立っている。と告げております。ですから、パウロはテサロニケ人への手紙の中で祈るのです。「平和の神ご自
身が、あなたがたの霊も魂(精神)も体も何一つ欠けたところのないものとして守り・・・」と。この三つの要素が健康な
人間として存在し続けるためには、不可欠であるからです。しかも神様からの恵みと恩寵を受け取るのは、理性や知力、
肉体で受け取るのではなく、その人の霊を受け皿にして受け取っているのです。そうでないならば、理性や肉体だけでは
神の恵みによって生かされてあることはわからないのです。神に生かされながら、なんとも思わずに、当然のように過ごして
いるのです。


 イエスの誕生を巡って登場する、エリザベット、ザカリア、マリア、シメオン、アンナは、己の霊を受け皿として、神の霊を受
け留めて、讃美を捧げているのです。

 実はこの説教題を後から見て、「困ったなあ!」と思いました。マリアの賛歌「わが霊は神を喜ぶ」を説教で語る力量は
自分にはない。と思ったからです。そんな力も、実績もない!!と。

でも、この説教題はわたしが一か月前に決めたものでした。なぜだろうか。わかりません。たぶん、直感的に今日の聖
書の箇所の中心はマリアの賛歌の告白の言葉にある。と、私の霊が感じ取ったのではないだろうか。知的に明確に語れ
ると理性が判断する前に、霊による直観が「ここが、今の私にとって、中心に捉えるべきところである」と。わたしを突き動か
したのではないでしょうか。
 

私はこの箇所をマリアと同じ深みでは捉えきれていません。

 憐れみたまえ、主よ。アーメン。

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