2021年  12月 26日  降誕節第1主日

      
聖書 :  サムエル記上         2:18-20、26
            詩編               148編
            コロサイの信徒への手紙   3:12-17
            ルカによる福音書       2:41-52

      
説教 : 『 安らぎの場所 』    光延 博牧師 
            
        教会讃美歌 :  39、 38、 34、 199

 当時のユダヤの社会では、12歳になると、自分で意識的に神様のおきてに従っていく生活ができるようになる年齢だ
と考えられていたようです。お父さんのヨセフさんとお母さんのマリアさんは、大きく成長し12歳になった愛する子、イエス
様のことを神様への感謝とともに、自分たちの子を誇らしげに感じたこともあったろうと思います。家族でエルサレムへ旅し
て礼拝を行います。帰りの道で、イエス様がいないことに気づいた両親はエルサレムへ引き返し、神殿の境内にいるイエ
ス様を見つけました。

 その時の様子が書かれています。(46節から)「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質
問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」12歳のイエス様は教師
たちからしっかりと学んでおられたことが記されています。イエス様は30歳くらいから公の宣教を始められました。そのように
神様によってなされる時まで、学びや黙想、熟考の時を持って歩まれたことを思い巡らします。

そのような意味から私はこんなふうに思います。私たちのこれまでの人生もそうですが、この1年も神様へ向かう、神
様と共に生き、祈り考えながら歩んで来た旅であったと。御心を尋ね求めつつ、聖書の御言葉を聴いて、学びながらこ
こまで来ました。私たちの生涯は、求道者としての旅であると思います。生涯、神様の求道者です。

イエス様は、神殿の境内で話していた「学者たち」、教師たちと、30歳からの公生涯の中で、論争して行かれます。
教えてくださった先生方との真剣な話し合いをされて行かれました。その論争は、話している相手が本当の救いの中で
生きて欲しいという切なる神様の願い、愛からでありました。小さい時から、聖書や宗教生活について、たくさん自分に
教えてくれた、大切にしてくれた、そのことへの感謝をイエス様はお忘れになることはなかったと思います。だからこそ、出
会われるその人その人を本当に活かす救いを公生涯の中で語って行かれたのです。

 イエス様が公生涯で説かれた救いの御言葉がどういうものであったかが、今日の聖書箇所にも表れています。49節の
言葉です。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 「家」という語は原文
にはないのですが、この文章は「家」を示唆する慣用的な言い方であったようです。当時、神様の家のことを神殿だと考
えられることも一方ではありました。ちょうどイエス様が神殿の境内で話し合っておられたわけですが、イエス様が「自分の
父の家」と言われているのは神殿のことではないことは皆様よく知っておられるところです。イエス様のお家は神様です。そ
して、ここでの「家」は「よって立っている所」と言い換えられると思います。「根拠」と言ってもよいでしょう。自分がそれによ
って立たされているもの、自分の命、生活の根拠です。「神様によって生かされている」ということがここでもまた語られて
いるのです。そして、それは人間にとって「当たり前」、「自然な」ことだ、その事実を「知らなかったのですか」。「知らない
はずはない、あなたはそれを知っている。あなたがそこに生かされていることは、あなたの身が知っているはずだ」。

 イエス様は、「野の花、空の鳥を見なさい。小さなもの、はかないと感じるようなものを誰が生かし、支えておられるか注
意して見なさい」と人々を促されました。ご自身を生み出し、身体・各臓器を動かし、歩みを支えておられる、生きてお
働きになっておられる神様がイエス様のおうちです。そして、すべての人と共に、その御父の恩恵を受けていることにご自
身満たされておられるのです。自分と離れ離れではなくて、一緒に生きておられる神様がイエス様のよって立たたれてい
る足場でした。どこに行ってもこの神様と一緒。なにがあっても神様と一つ。同じくそうであるあなた。だから、あなたは、
人間とは、素晴らしいのです。神様が一緒におられる命。だから、大切にし合いたいのです。何かができるから、人より
優れているから、人から褒められるから、自分で自分を認められるから、神様が共にいてくださるのではありません。あなた
があなたであることそのものが極めてよいのです、神様が共におられるのです。あなたが生きているということが、それを証
明しています。愛されているから、ここにいるのです。

 この命の根拠は、十字架の最期までイエス様によって貫かれました。十字架で全員に捨てられることは、この世的には
救いがないことです。愛なる御父さえも見えなくなる闇。しかし、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったので
すか」と叫ばざるを得なくなる感情を、イエス様は御父に向かって、その人間の生きる苦しみを包み隠さずに叫ぶほどに、
事実ここにおられる御父と何の隔たりもなく一つとして、慈しみに満ちた御父のふところで、おうちでそう叫ばれるのです。
取り繕う必要はありません。このイエス様が、人間の本当の救いを現してくださったのです。

 何があっても生きてゆける。弱いままでも、このままで生きてゆける。そういうものが本当の救いではないでしょうか。皆
様、考えてみていただきたいと思います。本当の救いとは何か、と。私たちの人生の旅には、この問いを抱えつつ求めな
がら歩むということはないでしょうか。その旅に、イエス様が「私たちのおうちは神様だ」と語られているのです。クリスマスは
救いの到来です。救いが来たのです。神様はご自身の命そのものを与えてくださった。その命を受けて神様と一緒に歩
んでいる私たちなのです。

  生きるということは大変なことです。楽しいこと、嬉しいことばかりではありません。この一年にも皆様お一人おひとりそれ
ぞれ大変な中を歩んで来られたと思います。その歩みは、御父とイエス様と一緒の歩みであったことを今日、皆様とご一
緒に心に覚えたいと思います。私たちにはそれぞれ過ちがありましたが、それらは御赦しの中に完全にあります。私たち
は一年の終わりに際し様々な思いを持つ今、すべてのことは、神様の御手の中にあったということをご一緒に覚えたいの
です。皆様に、どうか神様からの平安が与えられますようにとお祈りいたしております。

 新しい年の旅に進もうとしています。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘ
ブライ13:8)の御言葉を覚えたいと思います。また、デートリッヒ・ボンヘッファーの獄中詩を、最後にご一緒に覚えたい
と思うのです。『讃美歌21』に収録された469番 「善き力にわれかこまれ」です。「1 善き力に われかこまれ、守り
なぐさめられて、世の悩み 共にわかち、新しい日を望もう。2 過ぎた日々の 悩み重く なお、のしかかるときも、さわ
ぎ立つ 心しずめ、みむねにしたがいゆく。3 たとい主から 差し出される 杯は苦くても、恐れず、感謝をこめて、愛す
る手から受けよう。4 輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来たるべき朝を待とう。5
 
善き力に 守られつつ、来たるべき時を待とう。夜も朝もいつも神は われらと共にいます。」

 この年を神様に感謝を向け、来るべき時を受け取りましょう。新しい年もまた、神様の中に、神様が共におられる時で
す。ご一緒に、その中を進んでまいりましょう。

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