≪メッセージの要旨≫  2021年   2月 21日   四旬節第1主日

        
聖書 : 創世記         9章  8〜17節
             詩篇          25編  1〜10節
             ペトロの手紙T     3章 18〜22節
             マルコによる福音書  1章  9〜15節

        
説教 : 『 あなたはわたしの愛する子 』  木下 海龍 牧師 (代読:小谷兄)
            
          教団讃美歌 :  67、 191、 284、 527


 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者
この声はイエスが洗礼を受けて水から上がるとすぐに、天から聞こえてまいりました。
天からのこの言葉は、イエスが「神の国」の福音宣教の開始にあたって、天からの宣言であります。
しかしながら同時にイエスのご生涯を総括する最後にこそふさわしい言葉であったとも言えましょう。

 仮に人の目からは苦難と孤独な人生だと評価されてしまったとしても、最終的には、
本人自身が、自分は根源者によって愛されていると感得して、その方の心に適う存在であったのだと知らされ、
確信できて、受け止められたならばこれ以上の自己存在意義の確認はないのではないでしょうか。

 その根源者の評価と意図はどこでどのようにして我々は知りうるのでしょうか。
・目の前の汝である他者がこの己に向かって喜びと感謝の心情を抱いている事を垣間見る時ではないでしょうか。
 そのように受け止め、覚えている一人でもいらっしゃるならば!!! 
 そうです!一人でもいいのです。
 そうした他者の存在が、神であられる根源者の評価として見て良いのではないでしょうか。

マタイ25:33,40  そこで、王は答える。
 『さあ、わたしの父に祝福された人たち、
   天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』
 『はっきり言っておく。
   わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

「この小さな一人にしたのは、私にしてくれたのだ。だから私が用意した天の国に招かれているのだ。」と・・・。

 ここでさらに先を読んで理解を深めましょう。
それは彼らが
『主よ、いつわたしたちは、飢えておらえるのを見て食べ物を差し上げ、・・・・したでしょうか。』
との言葉です。
彼らは此処で報われる行いをしたことを覚えていないのです。
彼ら自身からは、報われる行いを証明する記憶も書面も出せないでいる事実があります。

 ただ一つ絶対他者である主が明確に覚えておられたのです。

マルコ9:41
はっきり言っておく。
 キリストの弟子だという理由で、
 あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。

 コップ一杯の水であってもその報いを主は必ずなさるとおっしゃっておられます。

 最近私は、細かな物事を忘れがちになっております。
覚えたはずのお使の品物を忘れてしまいますので、メモ帳に書いてもらって出かけます。
手から離したものは次の瞬間には忘れる傾向にあります。
 自分の行為を忘れた私は私ではないのでしょうか。
忘れた私と覚えている私は別人なのでしょうか・・・・と考えたりします。 
私が私であることを認める他者が必要です。
名前も忘れた自分を私であると認め
関係性を維持してくれる他者なしには、人生を全うするのは不可能な感じがしております。

 チョット書物からの引用です。
上田閑照著「私とは何か」Pp199 岩波新書 2000年4月20日発刊
あれ?「私とは誰か」ではなく、「私とは何か」!!??とは?
「私は、私ならずして、私である」。p17、
「私ならずして(自分に閉じこもろうとする傾向を否定して、他者とともに在る場所に開かれ、
 相手に向かって)、私です」ということとして成立する。」すなわち「私は、私ならずして、私である」。
これが「私」ということです。P32

「あなたはわたしの愛する子」 「あなたは」「わたしの」。「あなた」と呼びかける
「わたし」が眼前に存在することによって、初めて「わたし」が意識され、
「わたし」はこの身を神の前から隠していたとしても、神は「どこにいるのか」と呼びかけられるお方なのです。
われわれは、恥多い身を隠していたいとしても、「どこにいるのか」と呼びかけるお方であります。
神は「あなた」が滅び去って無き者の如くに捨て置くに堪えられないお方なのです。

 神であり人であるイエスは受肉の秘儀によって真に「人」を代表されているがゆえに、
「あなたはわたしの愛する子」と呼びかける神にとって
「人間」である我々一人一人に向かって同じように呼びかけておられます。
呼びかけられた「わたし」に於いて神の愛の眼差しが顕現されているのであります。
 「あなたはわたしの愛する子」の声が響き渡っているではありませんか。

 憐れみたまえ、主よ。  アーメン。

戻る