≪メッセージの要旨≫  2021年   2月 7日   顕現後第5主日

        
聖書 : イザヤ書           40章 21~31節
             詩篇             147編  1~20節c
             コリントの信徒への手紙Ⅰ  9章 16~23節
             マルコによる福音書      1章 29~39節

        
説教 : 『 多くの病人をいやす 』   木下 海龍 牧師 
            
          教会讃美歌 :  56、 289、 290、 322


 イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後に、荒野の40日に及ぶ断食修業と悪魔からの誘惑を撃退しました。
そしてすぐに、ガリラヤでの伝道を開始します。
初めに四人の漁師を弟子に召し出します。
そしてその一行は安息日でしたのでカファルナムにある会堂に入って教え始めました。
それを聞いた人々はイエスの教えに非常に驚きました。
権威ある者としてお教えになったからです。
その会堂にいた汚れた霊に取りつかれた人から汚れた霊を追い出します。
それでイエスの評判はたちまちカファルナム地方の隅々にまで広がるに至りました。
この出来事に続いてすぐに、イエスと弟子の一行はシモンとアンデレの家に行きました。

シモンの奥様のお母さんが熱を出して寝ておりました。
イエスが見えたので、人々は早速にそのことをイエスに話しました。
そこでイエスが彼女のそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。

 ここまでの流れは、安息日に会堂に入った日のほぼ一日の出来事でした。
安息日のことですから、普通一般には、医療行為は行わないのが慣わしでありました。
此処でイエスは「この時しかない」、と思われた時には、当時の慣わしや規律よりも、
その人の命をまずは第一に生かし、その人を癒す事を選ばれる方として描かれている箇所です。

 振り返りますと、21-28節では、イエスの教えに接した人々は権威ある教えだとして非常に驚いたのです。
そのさなかで汚れた霊の叫びに対して、「この人から出て行け」とのイエスの命令によって悪霊を追い出しました。
人の心を根城にする悪霊を追い払うイエスの業はイエスの持つ権威を明らかにするものでありました。
さらに、シモン(のちのペテロ)の義母の手を取って癒します。
治ったことの徴は「熱は去り」と記されています。 それだけではなく、彼女は一同をもてなしたのです。

ここで「もてなした」と訳されたギリシャ語は「διακονέω ディアコネオ」は
単純に給仕するだけの意味ではなく、イエスに従う女性の姿を述べる用語であります。
しかも、この動詞の時称は継続的な動作の開始を示す未完了形でありますから、
「もてなし始めた」の意味であり、その「もてなし」は一回限りではなく、長く続くことを表現しております。
マルコにとって、シモンの義母の癒しの奇跡は、
イエスの教えの確かさを示すと同時に、神の救いに出会った人が取るべき態度を教える奇跡なのでした。

 シモンの義母が癒された出来事は、我々が今日、病院に行って治療を受けて治癒に至る状況とは違う面が感じられます。
私自身も某医師にはお世話になったなあ! との感慨はあり、
何かの折に思い出すことはありますが、それ以上のことはありません。

 シモンの義母の場合は、その後ずっと折あるごとに「もてなし続けた」と読める聖書箇所ですので、
人格的な深いつながりをイエスとの間に出来上がったのではないでしょうか。
病の癒しとイエスとの信頼関係の極致に至ったと読める箇所です。
このことは病気の治癒のほかにも取税人マタイやザアカイのような人との関係でもいえるでしょう。
「双次元的人格」関係を形成しながらイエスは何時も人に向き合って来られたのです。
 「手を取っておこされると」 「熱は去り、彼女は一同をもてなした。
彼女はこれまでに、自分も含めて人が治療を受ける場面に付き添ったり、また自分も治療を受けた事もあったことでしょう。
その彼女が直接にイエスによる治癒を受けて、すぐに熱が去った体験をしたときに、
これまでとは違った確かな聖なる領域に抱かれ、聖なる力によって癒されたのだと体験したはずです。
それが「神の国」宣教に挺身しているイエス様によるのだと確信したのです。
そこから「神へのひざまずき方」を短時間の逡巡を経て、「一同をもてなす」ことを選び取った、
それが彼女の「神へのひざまずき方」であったのです。

 ここに至って、思いますには、
洗礼を授かった私ども一人一人の具体的な「神へのひざまずき方」は何であろうか、と思わされます。

まずは、彼女の跡に続く私どもとして、日ごとの「祈り」に集中して参りましょう。
自分で決めた聖書の個所を読み、続けて主の祈り・自由祈祷・特別の祈り・祈祷書による祈り、さらに沈黙の祈り・・・
などなど、自分にとって取り掛かりやすい仕方と自分が実践しやすい時間帯を選んで続けましょう。

その人にふさわしい形で続けるならば、必ずや神の臨在・実在に触れることになります。
その実践の上で、迷いや疑問などがございましたらなんでもご相談ください。
直接に、またはメールで、また電話で気軽に投げかけてください。

 応答する準備は私には整っております。
皆さんの上に主イエスの平安を祈ります。

 憐れみたまえ、主よ。   アーメン。

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