≪メッセージの要旨≫  2021年   3月 21日   四旬節第5主日

        
聖書 : エレミヤ書        31章 31〜34節
             詩篇            51編  3〜14節
             ヘブライ人への手紙    5章  5〜10節
             ヨハネによる福音書   12章 20〜33節

      
説教 : 『 一粒の麦地に落ちて 』  木下 海龍 牧師 (代読:大石兄)
            
        教団讃美歌 :  71、 336、 394、 290


 コロナ禍ではありますが私自身は気を付けながら無事に日々を過ごしております。
いっぽうでは、86歳ですから、余命宣告を医師から受けているわけではありませんが、
自分の命はあとどのくらいだろうかと時々思います。
私が冥想指導を受けた、E.ラサール神父さまは92歳で逝かれました。
同じく門脇佳吉神父様は91歳でした。
二人ともに、人格において、また学識において、
多くの弟子たちを育てられて大きな働きを残された立派な先人でございました。

 日本福音ルーテル教会でお世話になった先生方のことも想いおこしますと、
岸千歳先生は91歳、田坂敦巳牧師70歳、北森嘉蔵先生82歳、白髭市十郎牧師92歳、
石田順郎牧師87歳、内海望牧師84歳、神学校同期だった白川清牧師82歳・・・。
R.イングルスルド先生から同じ時期に洗礼を受けた浜名教会の鈴木荘市兄は
コロナ禍の前年2019年11月1日に84歳で召天・・・・。
思い浮かぶままに追憶していますと、余命宣告を受けなくても、私は十分に逝く歳になっていると実感します。
先の二人の神父様方と似た生活スタイルをしておりますので、
91,92歳までは生きるのではないかと期待しておりますが、それは分かりません。
仮に私の逝く歳が92歳だとすると残るは5年ほどになります。
振り返りますと過ぎた5年はすぐ昨日の如き感じで思い起こされます。
とにかくその時は近い、ということです。 
そこで、インドのガンジーの言葉、
 「明日死ぬかの如くに、今日を生き。 永遠に生きるかの如くに学び続ける。」 
と、自分の身に重ねております。

 そこで今日のヨハネ福音書の言葉です。
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
勿論この言葉は、イエスが御自分の十字架の死を目前にして、弟子たちに語った言葉でございます。
イエスの死によって、過去現在未来に渡る、全人類の贖罪の死を遂げられました。

 イエスの死を悼みつつ、その死は私を罪の滅びから贖うためであったのだ、
とこの身にしっかりと受け止めて、わたし共教会の群れは意義のある生活をして参りましょう。
それがイエス様へ従う生き方であり、日々の生活が感謝の営みとなるのではないでしょうか・・・。
確かにそうです。
イエスの死をキリスト教教理の最重要な要として理解し受容いたしましょう。

 今ここで、この聖書の言葉を聞くとは、それとはまた別の側面を語っているのです。
イエスの死は私のためであっても、私自身の死ではありません。
「一粒の麦、地に落ちて、死ねば・・・。」と今、私に響いてくる時には、
「一粒の麦」は私自身であり、「地に落ちて、死ぬ」とは私自身が、この「地」で死ぬならば、と響いてまいります。

死の厳粛さは、自分の死を代わってくれる人はいないことです。
一度は必ず訪れる自分の死は自分自身が当面するほかはございません。
それは地上でおこる現実であって、肉体が死滅し、焼却され、塵になる現象であります。
同時に人間にとって死は極めてスピリチュアな事柄でもあるのです。
この二重構造は分け難く一つになっているようです。
 「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る。
と、イエスは誘惑者に言い放ちました。

 人が生きていくための要素には「パン・食べ物・形而下的領域」と
「神・見えず触れ得ず、言葉では表現し難い実在からくる期待・形而上的領域」の
二つの領域に分け難く生きているのです。

 そうした人の構造は二つの領域構造であるがゆえに、
「地に落ちて(形而上の領域をこの身は包含しつつ、地という形而下的領域において死ぬならば
(形而上的存在にこだわらずに、地の領域に身を沈めるならば、必ず多くの実を結ぶ)
その直後に、形而上の領域へと反転するのだ、と。
ここで「多く」とは数の多さを指すだけではなく、その内実の深さ質の高さをも顕す言葉として受け取れます。
そうであるならば、私と、あなたのこの「地」の死が、
どなたか一人の心とスピリチュアが形而下の現象界で生きているにもかかわらず、
目には見えないが形而上的な神の領域へ向けて覚醒してゆくのです。
その一人の神への覚醒は天上における大いなる喜びとなる。と、イエスは仰っておられるのです。
  アーメン。

  <理解のために>の説明
   「あなたの主である神を愛しなさい」マタイ22:37=は形而上の領域です。
    神は見えず、触れられず、供物を召し上がったりはしません。
   「隣人を自分のように愛しなさい。」マタイ22:39 
    この言葉も、キリスト教倫理上の教えですから、形而上的領域です。

 「最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことだ。
     食べさせ、飲ませ、宿を貸し、着せ、見舞い、牢に訪ねてくれたからだ。

ここでは、地上で助けが必要である小さい者にした行為は形而下における行為を指しています。
その行為が同時に形而上的領域(見えない神の領域)と分け難く、直結した行為であると、イエスは仰っておられるのです。
 憐れみたまえ、主よ。
   私どもと、共にいてください。
      アーメン

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