≪メッセージの要旨≫ 2021年 3月 28日 主の受難
聖書 : イザヤ書 50章 4〜 9a節
詩篇 31編 10〜17節
フィリピの信徒への手紙 2章 5〜11節
マルコによる福音書 15章 1〜47節
説教 : 『 イエスは十字架へ 』 木下 海龍 牧師
教会讃美歌 : 80、 81、 318、 386
時々自分の終末期ケアについて妻と娘に断片的な頼みごとをします。
延命処置はしなくてよろしい。ただし家族みんなの都合で少しの延命処置はかまわないけど・・・。
ただし、体が痛むのはなわない、痛いのはいやだから何か痛み止めの処置はして貰いたい。と・・・・。
本日のマルコ福音書15章以下を読みますと、1節にイエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
15節:イエスを鞭打ってから、十字架につけるために渡した。
16節:兵士たちは・・イエスを引いて行き、茨の冠を編んでかぶせ、
19節:また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、
20節:このようにイエスを侮辱したあげく・・・十字架につけるために外へ引き出した。
24節:それから、兵士たちは午前九時にイエスを十字架につけて・・・。
34節:午後三時にイエスは大声で叫ばれた「わが神わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
37節イエスは大声を出して息を引き取られた。
「イエスは『苦難と十字架の道』をすすんで負われて歩んだ」
この出来事の事実を考えると決して尋常な出来事ではありません。
私は思うのです。
イエスが受けた痛みの数々を考えますと、こうした苦痛を受ける前に、
途中で逃げ出せた機会は幾つかあったはずなのに、なぜ逃げ出さなかったのかなあ、・・・と。
イエスは、子供の時代に、独立運動即ちローマ支配への反旗を起こして、捕えられて、
見せしめのために、ガリラヤ街道沿いに十字架につけられた人人々の処刑の様を見ていたのです。
だから、このむごい十字架刑の死に方は避けたかったのです。
それゆえに、
「うつ伏せになり、祈って言われた。
『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」マタイ26:39 と祈られたのです。
申命記21:23「 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。
木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。
あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」
木にかけられて死ぬことは、「神に呪われた」死に方である、
と一般に受け取られていたことからも、イエスは十字架の死を避けたかったのだと思います。
それを知りつつも、あえてイエスは神の御心に従う道を選ばれました。
ここにイエスのパッションが迫ってまいります。
ガラテヤ3:13「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、
わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」
ご自分がのろいの全て引き受けることによって、すべての人が受けるはずの呪いから解放したのだ。
そこから反転して、すべての人を「信仰」の領域に向かう・ゼロポイトへ向けさせるのだ、
それが神の御心であるとイエスは自らに受け取って「立て、行こう。」と歩みを進めたのでした。
ここまで書き進めてきた段階で、私の意識は他に飛んで、数日が経過しました。
3月24日にようやく届いたタウラ・ウエストーバー著「エデュケーション 大学は私を変えた」を読みだしたからです。
殊にその中で、
(p388以下のところに出てくる自由の二つの概念について、書き手の主人公と一緒に考えさせられました。
一つは消極的自由=他者からの干渉や制約からの自由。
二つ目は積極的自由=内なる強制からの自由について、
積極的な自由とは自制――自分による自分のルール――だ。
積極的自由を得ようとするなら、自分の心を管理して、
不合理な恐怖や信念、嗜癖(しへき)、迷信などありとあらゆる形の自己抑制から解放される必要があるのだ・・・・。)
私がここで、イエスの十字架刑について語る時に、聞き手に、必要以上の不安と恐怖を植え付けていないだろうか。
愛する教会員の皆さんが事実を直視する勇気とその理性に信頼しましょう。
そこから、自分による自分のルールを見出して実践する生活を始めるに違いないのだから・・・。
十字架の意味や教理についての説明は長い教会史の中で洗練されて来ましたので、整然と説明されて参りました。
口ごもってうまく説明できない私どもに代わって、弁明してくれております。
同時に、洗脳や脅しによってではなく、私たち自身が、自分の内と外を含めた現実をよく見ることによって・・・。
更に、社会の中で、富める人と持たざる人の生活格差の現実、
立場的に力のある人達によって行われる政策によって、翻弄されている人々の生活の実態を見るにつけ、
そこに生きている人間と集団が神の真実から離れた倒錯や傲慢さの事実。
この我々の現実とイエスの十字架の死は結びつくのではないでしょか。
イエスは十字架刑の上で執り成されました。「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。」と。
憐れみたまえ、主よ。
私どもは、自分が何を選び、行動しているのか、本当のところは分かっておりません。
ただ、目先のことだけが気になっているのです。
永遠の射程を神の愛によって、選び行動できますように、導いてください。
アーメン。