≪メッセージの要旨≫  2021年   2月 28日   四旬節第2主日

        
聖書 : 出エジプト記         20章  1〜17節
             詩篇              19編 
             コリントの信徒への手紙T  1章 18〜25節
             ヨハネによる福音書      2章 13〜22節

        
説教 : 『 父の家を商売の家とするな 』  木下 海龍 牧師 (代読:小谷兄)
            
          教団讃美歌 :  142、 139、 515、 500


 人は際限なく自分の生きる都合に任せて権益や領域を拡張してゆく傾向があります。
例えば、六日は自分の生活のために働き、主の日は神さまのために聖別する。
と定めていたとしても様々な理屈をつけて7日間全部を働かされたり、自ら働いたりする。
この領域は人間の生活を中心にして活動してよろしい、
この領域はひたすらに神に心を向けて祈る所であるべし、
としても、言い訳と都合の良さを優先して、
最終的にはそれが商いの行為になってしまうことが多々にしてあるのではないでしょうか。

 今日の聖書に於いても、当時の当事者にとっては人間の都合を優先した仕組みであったでしょうが、
そこには世俗と聖なる領域とのあいまいさや倒錯が起こり、
本来の意味が汚されてゆくことがしばしばあったのです。
神様よりも人間の利益を優先してしまう傾向がるのです。
6日間は自分のためにと定められていても、初めから聖別されたその一日までもが都合によって侵す状況
・・・・となる傾向が人にはあるのでないでしょうか。
世俗と聖なる領域との葛藤がせめぎあうものです。

 宇宙や地球は神のご支配にあると考えるならば、
全てが聖なる場所であり神の領域でない所は無いのであります。
それでも人間や諸生物が生きて行くためには「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、その木からは、決して食べてはならない。」と限定を置かれました。
それを超えるな、と。
すべてがあなたの自由になるのではないのだ、と。

私が90歳以上生きたとしても、必ず私の終わりは訪れます。
そこのところにも、我々には限界がある存在であると証しているのです。
限界が無いかのごとくに神の領域を侵し穢してはならないものなのだと、
そのことを今日のイエスの行動が明確に告げているのであります。

 ヨハネ2:16 鳩を売る者たちに言われた。
 「このような物はここから運び出せ。
     わたしの父の家を商売の家としてはならない。


 当時礼拝には鳩や動物を捧げる儀礼がありました。
生きた動物をそこまで連れてくるのは非常に厄介な事だったでしょうから、
便宜上、鳩や山羊を売る商いが黙認されていました。
ローマの貨幣には皇帝の像が刻まれていましたので、偶像が刻まれた貨幣を神殿に納めるわけにはゆかないのです。
ですから手数料払ってイスラエルの古い貨幣に両替する必要がありました。
 イエスご自身もそうした事情はご存じでありました。
その上で、イエスが発したこの言葉にはどのような意図が込められていたのでしょうか。
イエス様の行動には次の聖書の言葉が響いていたのではないかと推察されます。

 「その日には、馬の鈴にも、『主に聖別されたもの』と銘が打たれ、
     主の神殿の鍋も祭壇の前の鉢のようになる。

   21 エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、
     いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。
     その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。
」ゼカリヤ14章20−21節

イエスは此処で神の徹底した救いを宣言しておられます。
商いの手段に寄らなくても、素手のままに来て、霊と真心を持って、礼拝に入りなさい。
すべての捧げものは清めて備えられてあるのだから。
私自身がその供え物であるのだから!!と宣言しておられるのです。
これは救いの完成を告げる新たな時代の到来を宣言するための宮清めであったのです。

この直後の十字架の磔刑(贖罪の業)と復活(死による脅しが終わり、永遠の命の約束)によって
神の介入がこの世と人の人生への約束となったのです。

 ですから、これまでの様に、銀貨を捧げ、鳩や動物の捧げものによって神との一時的な赦しと和解に至るのではなく、
わたしイエスが来たのは神との永遠の平和へ招くためであるのだ!!と宣言なさっておられる行為でありました。

 顧みて、われわれの生命の有限性の現実をどの様に考えたらいいのでしょうか。
生物学的に、我々は例外なく肉体の活動停止によって、生ける肉体とプシュケー(霊)との分離が起こり、
意識と生ける肉体の合一によって存在していたこの世の私は亡くなってゆくわけです。
私が亡くなった後の次の領域があるのか。
聖書は在ると宣べております。
それが主の復活の世界です。

 一方、私自身はどの程度それを信じていると言えましょうか。
信じます!!と叫んだところで、私自身の信仰の保証にはなっておりません。
ただ十字架と復活の主に向き合って
「信じます! 信なき我を助けたまえ」と思わずほとばしってしまうほかはないのでありましょう。
でも、そこにも我々の側に信の真っ当さの存在が保障されているわけではありません。
ただ、ただ主イエスの側で「汝の信仰、汝を救えり」と仰って、受けいれてくださっておられるのです。
有難いことであります。

 私は時々、何かのきっかけで、あの世とこの世の狭間に生きているような感じになります。
それはこの世にどっぷりと両脚を置くには神を信じている者の在り方としてはどんなもんかと思い、
向こう側に行ってしまうにはまだまだ修行中にあると思えて、まだ逝くには早すぎると思ったりしています。

 私の感じでは、神の領域とこの世の世界とは明確に区切られてはおらず、交差し混じり合っているようです。
ひとえに「神の国」がこの世に突入してきている感覚です。
宇宙と地球と人類の長い時間軸からするとイエス様の来臨はつい昨日の事柄の様に思えます。
 十字架と復活による完全な救いの時代到来はすぐそこに、且つこれから起こるのです!!

 よそ見せず、主を待ちのぞみましょう!!
 憐れみたまえ、主よ。共にいてください。 アーメン。
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