≪メッセージの要旨≫  2021年   4月 11日   復活節第2主日

        
聖書 : 使徒言行録         4章 32〜35節
             詩篇            133編
             ヨハネの手紙T       1章1節〜2章2節
             ヨハネによる福音書    20章 19〜31節

        
説教 : 『 平安がありますように 』  光延 博 牧師 (代読:大石兄)
            
          教会讃美歌 :  190、 95、 105、 402


 「聖霊を受けなさい。
    だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。
    だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。

主イエス・キリストが
平和・平安(シャローム エイレーネー)をもたらされるためにお語りくださった聖なる御言葉です。

  この方はどのようなお方であられたか。
十字架の救い主です。
人間の罪を引き受け、悪を背負い、死を担われた、この私をまるごと負っている、私と共なる主、
主と共にいる私、そこで何を受けられたか。
罵りと嘲笑と暴力と棄却を受けられました。
一人ひとりを愛しておられるのに、それに対する報酬は抹殺以外なに一つなかった。
それを目の当たりにして、救い主は手のひらを返し、そうならばわたしも黙ってはいない、
お前たちに報復すると言われたでしょうか。

 私たちが通常するようなやり方で、目には目を、歯には歯を、
お前が先に手を出したのだから、私の仕返しは完全に正当だ、天罰が下るようにと面と向かって呪い、
あるいはひそかに呪い、結局殺し合い、自己主張を闘わせる方向へ向かい、気づいた時にはそこにいて、
自分はどうしてこうなってしまったのだろうかと、本当はこのようなことは本意ではなかったのにと、
そのように言い訳をする、その正体を見ようとせず繰り返しその力に振り回される、
その私たちを背負い、ただひたすら天の御父の御心を行おうと、血のしたたるような汗を流しながら祈り、
心騒ぎ不安で一杯になりながらも御父に自らを従わせ、罪の人間たちに流されるままに極刑に身をゆだねつつ、
しかし同時に御父の中に在る者として、そこで精一杯生き抜かれた、
そのように十字架につけられ生き抜かれた、そのお方が、その御子が、
 「父よ、彼らの罪をお赦しください。自分が何をしているのか分からないのですから。
と自分に槍を突いている全人類に対して、たった独りで、全く捨てられた者として、
御父と共に、その殺害に即原初からある赦しを宣告し、
一点、御父がご自身痛み、すべてを包み込んでいるという、
そこにある復活の生命を、元々、生れさせられた時から帰還していくまで貫かれている、
その神様の決定と現実の御支えと御導きとを自ら生き、そのようにして御父を啓示してくださったのです。

 私たちがまだ罪人であった時、御子は死んでくださった。
私たちが自分を神として、神様を捨て、自分で自分を義とし、自分の信仰が自分を救っていると、
自分が自分を救うのだと、一歩も自分の殻から出ることなく完結しようとする、
戸を閉ざしている者として自己をおとしめてしまっている、その閉塞を打ち破り、のみ込み、
 「生きよ
と語りかけて来られる、
 「わたしはあなたと共にいる
と十字架につけられたまいしままなるご自身と、主と共なる私とが、共に立ち上がるのだと、
この御言葉を聴く私たちに、今ここで語りかけてくださっているのです。
 「あなたの罪は赦されている。 赦された。 平和があるように。
と言ってくださっているのです。

 私たちはこの命がけの呼びかけを聴くのです。
どんなにか御父があなたを愛し、困難がある十字架の現実を知り、あなたの辛さを分かっておられ、
十字架の主として共にその辛さを「あなたとして」負っておられるか。
私のうちなるキリストが共に泣き、それでもなお生きていこうと祈っていてくださっているか。
その中にこの私は在る、弱いままで、失敗してしまうままに、間違いをしてしまうその私を、
あるがままの私を担い、背負っていてくださるか。
この御言葉の中に私たちはあるのです。

 何があってもこの御父の慈しみから引き離す力はどこにもない。
疑ってもよい、疑ってしまうのが人間だからです。
その人間は、疑いおじまどう、そのままで復活者とされていること、初めから復活者として創造されていること、
それをイエス様が示してくださったのなら、自我に固執せず、自ら中から殻をつつき、
外なる主の呼びかけに応答して殻を打ち破る、開かれた世界へ、神様の御国に存在しているここへ、
生かされて生きる私に戻り、共に救いの中に在る人間としてここに生きる。
そのようになす力がない私さえも慈愛の御父の中にある、この御言葉を聴くのです。
それが全くの神様のお力、「聖霊をいただくこと」です。

 イエス・キリストは全身全霊で御父が持っておられる慈しみと赦しを示してくださいました。
これは絶対の事です。
どんなに人間同士が赦さないとしてもです。
赦し合えない中でも、絶対の事を思い起こす者とならせていただきたいと思います。
絶対の事を知らされていることは小さなことだとは思いません。
その原点が自ずから私を真実へと引き戻してくれる神様の力となるからです。
「神様が愛してくださっている」、これが帰還点であり、復活点として定められているのです。

 他者を赦せない自分が、痛みをもって御父から受容されていることを見落としてはなりません。
自分を知ること。
愛されている本当の私に立ち還って行く応答をこそお返ししたいと思います。
 「自分を大切にするように、他者を大切にしなさい。
御父から愛されている自分を愛せない人は、他者を愛することができるでしょうか。
世のものへの依存でなく、御父と私は不可分である、そこに生きるのです。

 赦しを生き抜かれたイエス・キリストが私のうちに生きておられます。
内なる主と共に、この一週間も歩んでまいりましょう。
祈り合いつつ。
祝福を祈ります。

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