≪メッセージの要旨≫ 2021年 4月 18日 復活節第3主日
聖書 : 使徒言行録 3章 12〜19節
詩篇 4編
ヨハネの手紙T 3章 1〜 7節
ルカによる福音書 24章 36b〜48節
説教 : 『 彼らの心の目を開いて 』 木下 海龍 牧師
教会讃美歌 : 95、 89、 105、 453
私は自分が死んだ後に、この世で復活するとは思っていません。
更にはわたしの御先祖様が何時の日か目の前に甦って現れるとは全く思ってはおりません。
形而下の世界では、甦りとか復活はありえないことだと考えております。
使徒たちは、イエス様と三ケ年間ほど一緒に生活をなさって、教えられ、
伝道に出掛けたりした自分たちの先生が十字架の上で壮絶な死を遂げられた後に、
婦人たちから復活したイエスの報告を聞いたり、さらに目の前に現れても、弟子たちは信じきれなかった、
と言うのは、もっともなことで、信じられないでいるその状況はよく分かります。
私がその場にいたとしても、にわかには信じられなかったでしょう。
聖書を少し見てみましょう。
24:11「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」
24:16「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」
24:37「弟子たちは恐れおののき、『亡霊を見ているのだと思った』」
24:41「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、
イエスは『ここに何か食べものがあるか』と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」
ルカ24:45「そしてイエスは、聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開いて、言われた。」
イエスが語られたこれらの言葉は、弟子たちが肉眼では見えなかった領域を見せたのです。
形而下の世界に居ながら
肉眼で見える世界と観えない世界の実在を弟子たちが体験して行く過程を聖書は語っております。
ここのところで、イエス様が為されたのは、聖書の言葉のとき証でありました。
つまり人の理解力を超えたことに遭遇した出来事を言語化した上でそれを理解して、
更にそれを自分の中に納めて受容してゆく内的作業へと導かれました。
聖書に登場する人物が行き詰まった状況から再び生きなおして行く姿にはそうした作業が、
導き手と一緒になって本人たちが実行していった、と言えましょう。
現在でも、それは同じではないでしょうか。
今日でもそうだと思いますが、イエス様のお姿を見た!!と言いますと、
それは夢ではないか、それは錯覚だろう、君がおかしくなったのだとか、と言われることがしばしばあると思います。
一方その体験者から言わせると、自分は正気であるとの自覚もあり、
見たいと思ったからすぐに見えたのではなく、自分自身にとってもめったにないことであって、
意図せずにイエス様を見たのだ、と。
「使徒たちは、この言葉がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」24:11
ルカ24:25-26 「そこで、イエスは言われた。
『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』
弟子たちは復活の主が眼前に現れても、ただ驚くばかりで、理解して信じるところまでには至りませんでした。
その弟子たちに、イエスの側から聖書の言葉が示されてゆくのです。
24:27 「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、
御自分について書かれていることを説明された。」
使徒たちは、自分たちの愚かさ、不信仰、かたくなさをあからさまにさらしてでも、
この復活の出来事を告げ知らさずにはおかない決定的な体験したのです。
それと合わせてイエスからの「イエスの復活の証言者になる」強い使命をあたえられたのです。
さもなければ、普通の感覚では自分自身が受け入れられない復活の出来事を
己の命を懸けてまで宣教する事はなかったでありましょう。
私共は体験したことを自分の言葉で記録したりして言語化しますが、
さらに聖書の明確な文書に置きなおして身体化することによって、
その人に普遍的な真実として、心の内に根を張ることになります。
このことは同時に、教会の信仰共同体が
復活のイエスを頭とした一つの共同体へとかたち作られて行くものになるのであります。
一方では信仰者個人としては、
十字架と復活を証言する聖書の記述を明確なイメージになるように読み込むことが助けになります。
そして、身体的感覚の形而下の世に生きながら、既に旅立った愛する人や、やがて自分自身も
旅立つ先に思いを向けて、想念や感性を清明にして静まる時を定期的に持つようになれば、
平安と安堵感があなたを包んで、復活のイエスのもとへと導かれます。
数少ないその時を生かす人は幸いです。
憐れみたまえ、主よ。 アーメン。