≪メッセージの要旨≫  2021年   4月 4日   主の復活

        
聖書 : 使徒言行録         10章 34〜43節
             詩篇            118編1〜2節、14〜24節
             コリントの信徒への手紙T 15章  1〜11節
             ヨハネによる福音書     20章  1〜18節

        
説教 : 『 私は主を見ました 』  木下 海龍 牧師 
            
          教会讃美歌 :  90、 95、 105、 336


 ヨハネ福音20:1−18の間に、「見る」に該当する言葉が五回使われております。
18節でマグダラのマリアが弟子たちのところで、
「わたしは主を見ました。」にはギリシャ語の「オロー」の完了形である「エローラカ」が用いられております。
 「自分はこの目で確かに主を見たのです。そのうえで、その主からの伝言をお伝えします。
今日の聖書箇所には他に「見る」には、チッラト見る。よく観察して見る。愛された者として見る、などがあります。

 今日の説教後の讃美歌105番に触れたいと思います。
 「たぐいなきみ恵みよ、主は生きていたもう。(中略)
    われ見たり、み子イエスを みどりの木蔭に
この 讃美歌の背景を考えてみましょう。
ユダヤ教の安息日の次の早朝に、
マグダラのマリヤは、前々日の金曜日に十字架上で息絶えたイエスを偲び、
深い哀しみと絶望に陥っていた最中で、甦ったイエスを目撃いたします。
蘇ったイエスを目撃したマリヤは弟子たちのところへ急ぎ行って主の蘇りを伝えました。
その証言を、19世紀後半から20世紀にかけて活躍していた作詞家が
「緑の木蔭越しに、イエスを見た。」という設定の讃美歌を書きあげました。
私の大好きな讃美歌です。

 「イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」ルカ24:45  
肉体の目で見える世界と、肉眼では見えないが、心の目で見える実在の領域の存在、
という二重構造の世界の存在を描いているのだと思います。
二つの世界に真摯に関わって生きることは集中した精神力と節制力が必要です。
霊や魂の領域としての形而上界と肉体の健康を維持する為に行動する形而下界の領域の
二つ領域を正常な心で生きねばならないからです。

 考えてみれば、既に我々信仰者は、肉体とスピリチュアな両面を持って生きているのです。
見えず触れない神様を信じており、日常的に出会って生活している人を愛して共に生きようとしているのですから。
時にはどちら側に軸足を置いているのか、と悩みますが。

 マグダラのマリヤが復活して生きておられるイエスを見た。
声をかけられ、イエスからの伝言を弟子たちに伝えた。
この聖書箇所を読み・聞き・反芻したこの作詞家は目の前に広がる緑の木蔭にイエスを見た。
そしてこの讃美歌を書いた。
われわれにとっては、その意味は何でしょうか。
また我々も「われ見たり、み子イエスを みどりの木蔭に」と同じ体験をしたい願望が沸いてまいります。

 以前に私は、「われ見たり、み子イエスを みどりの木蔭に」
の領域を体験なさっておられる婦人に向かって、励ましと助言をしました。
「むやみに他言はせず、帰宅したら、いつものように、洗濯をしたり、食事の支度をするように。」と。
神秘的体験と言うか、エクスタシス的体験者が日常的生活をも含めて
円滑に行ってゆくためには、信頼関係の中で助言が必要であります。
だからイエスはこの状態のここに居続けたい彼女を弟子たちへ伝言を伝える使いへと派遣したのです。

 私の年齢になって本を読む状況には、自分にとって、全く知らない事柄を学び・知ることも当然ありますが、
他方では、自分は既に体験して、知っている事柄であるのだけれども、
その事柄を、言葉ではどのように表現したらより明確に伝わるだろうか、と表現の仕方を探したり、
またはそれに極めて近いと思える表現に出会ったりするための読書も少なくありません。

私が最近読んだ書物の一節の紹介してみましょう。
 「実際に、エクスタシーにおいて直観されるものは、本来的にロゴスの把握を超えています。
  したがって、高次元のエクスタシー段階に対応する存在論的な段階は、
  本来的に全ての言語学的かつ概念的な理解を超越するのです。
  それにもかかわらず、(神学者・哲学者が)探求する方法で、それを概念的にアプローチしようとすると、
  どこかの地点において、自らの概念的思考を超えて、エクスタシー的直観に入らなければなりません。」
     井筒俊彦著「老荘思想における絶対的なものと完全な人間」p67

 「完全で最終的な解決は当を得た行動と自然に研ぎ澄まされた当を得た絶えざる注意力によって、
  当を得た世界観を現実に生かす用意のある人たちにしかできない。
  エックハルトの言葉を借りれば、第七天国から病める兄弟のために
  一杯の水を持って降りてきてくれるタイプの人間、即ち聖人が要る」
     オルダス・ハクスレリー著「知覚の扉」p54

 私は真面目にその辺の課題を受け止めながら、一方では、そんなに難しく考える必要はないのだと信じております。
なぜなら、「人間」は形而的と形而下的の二重構造によって構成されていると考えるからです。

「癒えざれば癒えざるままに復活祭」井川 静  
「形而下の世に生きながら復活祭」海龍

われわれの存在を絶対的根源者が義(よし)として受容する根拠は、我々の側の信仰に由るのではなく、
イエス・キリストの真実に根拠を置いているからです。
 「神の義は、イエス・キリストの真実(ピステス)によって、信じる者すべてに現わされたのです。
     神はこのイエスを真実による、またその血による贖いの座とされました。
     すなわち、神ご自身が義となり、イエスの真実に基づく者を義とするためでした。

          聖書協会共同訳ロマ3:22、25、26

 復活の主よ!!われらを憐れみ、お導きください。 アーメン。

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