≪メッセージの要旨≫  2021年   5月 2日   復活節第5主日

        
聖書 : 使徒言行録        8章 26〜40節
             詩篇            22編 26〜32節
             ヨハネの手紙T      4章  7〜21節
             ヨハネによる福音書   15章  1〜 8節

        
説教 : 『 繋がって生きる 』  木下 海龍 牧師 (代読:小谷兄)
            
          教会讃美歌 :  181、 271、 402、 289


 ヨハネ福音15:4
共同訳「わたしにつながっていなさい。 わたしもあなたがたにつながっている。
文語訳「我に居れ、さらば我汝らに居らん。
田川健三訳「私の中に留まりなさい。 私もあなた方の中に留まっている。
詳訳聖書訳「私のうちに住みなさい。 そうすれば私もあなたたちのうちに住もう。」
       (私のうちに生きなさい。 そうすれば私もあなたたちのうちに生きよう)
本田哲郎訳「わたしにつながっていなさい。 わたしのほうからは、つながっているのだ。

 本田神父の4節後半の訳は、福音的な立場からすれば至極納得のゆく翻訳だと思います。
イエスはあなたがたが自分に繋がっていることを条件にしているわけではないのです。
すでに繋がっており、汝らの中に居て、留まっている、あなたたちのうちに住んでいる。
終わることなく今現在も然り。と語っておられます。

 4節で使われているギリシャ語のμε?νατεメイナテは
聖書翻訳者の受け止め方の感性によって、ニュアンスの違う日本語訳にしております。
「わたしにつながっていなさい、われに居れ、私の中に留まりなさい、私のうちに住みなさい、等々」
との日本語に翻訳しております。
私の「新約聖書ギリシャ語小辞典」にはこのほかにも
「滞在する、泊まる、居続ける、続く、存続する、生存する、残る・・」 と出ております。
聖書翻訳者は前後の文脈から自分の解釈の立場からもっともふさわしいと考えた訳語を選んでいくのです。

 根本のところでは人間の側の善い悪いに関わらず、人や生命あるものすべてが
生命を維持する上で必要不可欠な基本を神様は確保しておられるのだと受け取って良いでしょう。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、
     正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである
。」マタイ5:45

ただし、自分のことしか考えていないで、今の行動を続けている人や集団があるとすれば、
彼らの選択は当面は良いように思われたとしても、長い時間のスパーンから将来を考えれば、
己も隣人も結局は不幸な道に向かって、落ち滅びに向かうとなれば、
神の側としては、警告を発することがあると思います。その警告に気づくかどうかが問題ですが・・・。

信仰者にとっては、聖書の教える道筋から大きく逸脱することなく、
人を愛する道へと舵を切り替える悔改め(「現実界的概念の解体と再構築」)が起こるのだと思います。

 天(神)と地(人)に繋がって生きていることを日ごろから自覚して生きる人は信仰者だと言えましょう。
われわれは誰でも、神と人々につながって生きているのです。
太陽と雨水、電車や電気・水道のインフラの整備など、それらのおかげで生活しているのですから。
この私と言う人格に於いては形而上界と形而下界につながって生きているのです。
一切のものから切り離しては、地上でも天上においても生きては行けません。
自分に子がいる居ないに関わらず、過去現在未来につながった鎖の一つの輪として繋がって生きているのです。
繋がりなしには今も将来も生き延びては行けません。

 福音書はイエスの口を通して、同じ事柄を、違った視点から、何度も語ります。
例えば
ヨハネ10:14 「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
    10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。

14節と15節に「知る γιν?σκωギノスコ」と言う動詞が四回使われています。
羊を何時も心にかけている者として羊を知っており、
羊は自分たちのことをいつも心にかけてもらっているお方としてその羊飼いを知っているのであります。
自分はその羊飼いから愛されている者の眼差しで羊飼いを見ており、
愛された者の側からその羊飼いを知っているのです。
羊飼いであるイエスと、その羊である新しいイスラエルとの繋がりが語られているのです。
 さらに、イエスがその人を知るとはイエスがその人を選ぶことでもあるのです。
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」ヨハネ5:16
取税人マタイの召しや、ザアカイへの呼びかけの前提にはイエスからの繋がりがあります。

 ヨハネ福音は、「知る、つながる」の言葉を使いながら、
一つの「集合的な人格(A corpotate personality)を形成しているのです。
これは「集合人格」「共同的人格」と訳しても良いでしょう。
教会はキリストを頭とした、クリスチャンはその肢体・メンバー・構成員であって、
一つの集合的人格を形成しているのです。

 その一例を示すならば、サウロ、のちのパウロが
ダマスコに住むクリスチャンを捕縛するために出かけて行った時の様子からも見ることが出来ます。
使徒言行録9:3〜9
   「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
     サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
     「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。
     「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
       起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
     同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。
     サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 パウロはこの道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
地に倒れたサウロが「主よ、あなたはどなたですか」と問うて、返ってきた返答が
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」との返答でした。
パウロはクリスチャンを捉えに向かったのですが、イエスは「あなたが迫害しているイエスである。」と答えたのです。
ここに先に宣べました「集合的な人格(A corpotate personality)」関係を
イエス自身の側で明確に示している、と読める一例であります。

 イエスに繋がり、イエスの中に留まるとは、
イエスとの「集合的人格」に招き入れられている表明であり、我々の側の応答であるのです。
 恐れたり、案じることはりません。

 主よ、コロナ禍の中で、いまだ終焉が遠のいている状況の中に、わたし共は巻き込まれております。
この世に遣わされた使命を果たし得るように、わたし共の健康をお守りください。
憐れんでください、主よ。     アーメン。

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