≪メッセージの要旨≫  2021年   5月 23日   聖霊降臨(ペンテコステ)

        
聖書 : エゼキエル書     37章  1〜14節
             詩篇          104編 24〜35b節
             使徒言行録        2章 1〜21節
             ヨハネによる福音書   3章  1〜17節

        
説教 : 『 真理の霊・弁護者が来る 』  木下 海龍 牧師 (代読:大石兄)
            
          教会讃美歌 :  119、 120、 337、 402


 弁護者と聞くと、裁判所の風景をイメージするのですが、
即ち、裁判官、検察官、弁護士、そして被告人と傍聴席など。
しかしながらイエスがここで言っているのは、ご自分も被告人席に居られるのです。
それが5月2日の説教で触れました、「集合的な人格(A corpotate personality)」の立場であるのです。
ともに裁かれ、共に刑に服する人格関係にあることです。
ここでは井筒俊彦が言うところの「双次元的人格」関係が想起されます。

 説教を展開するために、聖書の個所の幾つかを参照したしましょう。
コリントU 5:21「 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。」 
ここで「罪となさいました」の言葉は別の訳本では「罪ありとなさった」とあることからその意味は明確です。 
初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」ヨハネ福音1:1
「言(ことば)は神であった。」と、ヨハネ福音は宣言します。
神は霊である」とヨハネ4:24にあります。
すれば、霊は三位一体の神であり。さらに、霊は神の言(ことば)そのものであるのす。
ここで、聖霊降臨の最初の出来事を想起すれば、
聖霊の降臨は弟子たちを宣教の言(ことば)へと立ち上がらせたのだと言えるのです。
この場合の言(ことば)は、情報伝達の手段のそれではなく、
弟子たちを真の宣教者として呼び起こした、宣教者として創り出して、存在させたのであります。
「神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」その創造の時の言(ことば)がここで響いてまいります。
このことを受容して、理解すれば、復活と聖霊体験は、
教理的文字伝達として終らせずに、己のうちに留まる聖霊の臨在体験となって、力強い確信に至ります。
存在は言(ことば)によるのであり、「言(ことば)は神であった。」と宣言する領域に教会が招かれ参入して初めて、
活きた言(ことば)が、聞く人のうちに弟子の「存在」を創りだすのです!
 神が働く現実にその人をして立ち会わせるのです!! 
そして、活きて働く神の言葉を聴き取り、神の「言」を語り継ぐ者となるのです。

真理の霊である弁護者自身が裁かれる貴方と
集合的人格(「双次元的人格」)となって弁論に立ちあがって発する言(ことば)は、
あなたを全き者として、新たに存在を創出させる言コトバが発声られるのであります。
この弁護者の言コトバは、三位の位格神である聖霊ご自身から流出して来る故に、
絶対的な弁護となって、貴方を聖なる眷属に連なる一人であるとする、確固たる証言になるのであります!

「降臨(こうりん)祭(さい)牢より我を放ちけり」 海龍
私自身がキリスト教への求道中にしばしば感じていたひとつに、月の裏側についてでした。
月を眺めている自分には見えていないが、その月には裏側が確かに存在しているのだ、と。
その当時の私には、神の存在と霊の領域は自分の側からは見えないけれども、
常識的な日常の裏の奥には存在しているのだ、という感覚が育っている最中でしたので、
牧師先生が語る信仰の道に歩みだしていた私には、一種の肯定感と言うか安堵感が与えられました。
カール・ポパーの言葉に文化は『目に見えぬ牢獄』との文言があります。
「我々は、大抵は己の所属する共同体の文化基準の命ずるままに生きているのだということを発見する。
無意識だからこそ、なおさら文化の規制力は強い。
その枠の中でものを見、考え、行動しているのだ。しかもそれに気付かずに。
だから『目に見えぬ牢獄』と彼は譬えているのである。」※1
※1井筒俊彦著「意味の深みへ」岩波文庫p63参照・引用

ペンテコステの出来事は、聖霊の促しによって、聖霊を根拠にして、
使徒たちが語った「言(ことば)・説教」が起こした奇跡であります。
私が聖書のメッセージを聞き始めた頃を思い起こすと、日本文化の規制の中で育ってきた自分でありました。
それに加えて、私は自分の精神構造の特性や固有の気質と、
育った環境、学校教育、習癖と言った檻に取り囲まれていた、と言えましょう。
 それらを牢獄と譬えれば、
その牢獄の一画が聖霊の言葉によって打ち破られて、私はキリストへと解放されたのです。
それがペンテコステの出来事の理解のひとつです。
基本的には、そこから解放された信仰体験で十分なのですが、
一方、われわれは新しい視界へと解放されたのだけれども、この社会の中で自分の任務を果たそうとすると、
これまでの文化構造や社会の牢獄の中で生活を続けざるを得ないところもあって、
聖霊からの任務を果たすためには、自分の霊的力を強め、信仰的境涯を深めたいと願っている人もいるのです。

 教会歴は最初のペンテコステの出来事を記念して、
その意味と聖霊の力を想起するために、毎年、聖霊降臨の(ペンテコステ)礼拝を執行しております。
 その上で、今のわれわれの教派教会の制度や日本福音ルーテル教会が
日本社会の中で存続することを希求するあまりに、良かれと思って、且つ無意識のうちに、
教会を『目に見えぬ牢獄』にしてしまって、人を拘束している面があるならば、
潔く、その牢獄を打ち破って、イエス・キリストの高く・広く・深い愛に向かって解き放つ選択を促す為に、
聖霊降臨の礼拝を年ごとに執行しているのです。
そこでは、日常の伝わる言葉を使いながら、
聖書と説教が聖霊による聖霊の「言」となって、我々信仰者がキリストに向かって解放される為の祭儀なのです。
その礼拝をわれわれは本日、ここで執行しているのです。
それゆえに、私が今この礼拝に参画していないことを、私自身にとって、とても残念に思っております。
その上で、コロナ禍で離れていても、三位一体の神であられる聖霊が
富士教会の兄弟姉妹一同に熱く注がれることを、真摯に祈ってやまない次第であります。

憐れみたまえ、主よ。
我らに平和を。
アーメン。

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