≪メッセージの要旨≫ 2021年 6月 6日 聖霊降臨後第2主日
聖書 : 創世記 3章 8〜15節
詩篇 130編
コリントの信徒への手紙U 4章12節〜5章1節
マルコによる福音書 3章 20〜35節
説教 : 『 我が母、我が兄弟とは 』 木下 海龍 牧師 (代読:小谷兄)
教会讃美歌 : 158、 294、 394、 337
イエスが宣教活動を始めるや弟子たちが信じて従って参りました。
その一方では、イエスは誇大妄想に陥ったのだと見られたり、
一介のしがない大工が気が触れたのだと見られたりしました。
確かに母親と弟と妹を放り出して、宣教活動に出て行ったのですから、
他の人から見たら、それは母親と弟妹を捨て置いて放浪の旅に出たように見えた事でしょう。
家内労働の面から見れば、働ける20代のイエスの弟は4人もいたのです。
問題は長子が家の稼業を放り出して、
世間からすれば、わけのわからない活動を始めたと世間からは見られていた事であります。
イエス自身は自分を生み育てた母親と弟妹が嫌になって捨て去ったのではなく、
大きな使命感によって、更に、神からの召し出しに応えた行動であったのです。
鎌倉時代の北面の武士であった西行が妻子を捨て、出家の道へと旅たった時の姿と重さなったりします。
初代教会は、
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、
『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。
それから弟子に言われた。
『見なさい。あなたの母です。』
そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」
と、ヨハネ19:26に記しています。
イエスは母親への恩愛を抱きつつも、
「人間はみな兄弟姉妹である」との神の眼差しをもって「神の国」宣教に進んで行かれました。
後の初代教会では母マリアは重要な立場にいました。
さらに、弟のヤコブはエルサレム教会の最長老の役割を担い、
外の勢力との折衝や内側を纏めて一つになるように尽力したのです。
石垣りん(1920〜2004)の詩から、本日の説教を展開してみたいと思います。
<歌唱>
「みえない、朝と夜がこんなに早く入れ替わるのに。
みえない、父と母が死んでみせてくれたのに。
みえない。
私にはそこの所が見えない。」 石垣りん 詩集 岩波文庫 p139
この詩を読んだ時に、イエスの「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」が思い起こされました。
「父と母が死んでみせてくれたのに。」 みえない!! とは!?
病床の父親が私の眼の前で死んでみせてくれたのに、私は何をみていたのでしょうか。
父と母のお骨を拾いあげながら、私は何を見ていたのでしょうか。と。
誰もが通過する肉親との永遠の惜別に、無常観と人の命の儚さを感じていたのでしょうか。
ただ得も言えぬ喪失感に陥っていたのでしょうか。
そんなことでは、父と母が死んで、みせようとしたそれを、私は見ていないことになるのではないでしょうか。
それは、石垣りんが言っている「みえない・・」と表現した心境に近いと言えましょう。
さらに、石垣りんは「みえない」と言って、みるべきものを見ていない、
自分自身のもどかしさを詩人の心は「みえない」が、あるはずの何かを見たいと語ったのではないでしょうか。
このことは、何をなんだと言っているのでしょうか。
古今和歌集(905年編纂)の序文{真名序まなじょ}の歌論の中で
「和歌の心は神の心に通じる」との文言を引き合いにするならば、石垣りんの詩人の心は
神に通じるその道の端にいたのではないか、と摂れます。
次に、もう一つの言葉を挙げてみましょう。
2015年6月に東北ヘルプ事務局長 川上直哉牧師の講演を聴く機会がございました。
その講演の中で、地震と津波の大災害の後に、引き取り手が判明しない「無縁仏」を弔い、
火葬の直前に、僧侶、牧師、神主の方々が同時に、経文、祈り、祝詞を唱える体験が語られました。
その講演の中で、川上牧師は「『超越への通路』に立たされた思いがした」と語っていました。
その言葉がとても印象深くて、その後の私の思索の中で、しばしば意識の水面に浮かんでまいりました。
古今和歌集の真名序の言葉にせよ、川上直哉牧師の「超越への通路」のそれも、石垣りんのこの詩も、
その人の表現は異なっても、同じ方向を指し示しているのではないでしょうか。
父と母の存在が自分の生存と存在の仕組みの中だけに限って見るならば、
その家庭があって、親子が生きる上で、親子の情愛が大事であることは全くそうであります。
親は自分の児を育てるのに一生懸命であり、そして逝ってしまった。
子はそれを振り返って、有り難いことであった、と、年齢を重ねるごとにつくづくと想いおこすのです。
先日、Zoomによる「牧師のルターセミナー」に参加しました。
その参加者の中では、いつの間にか私が最年長者になっていました。
そこで思ったのは、近い将来には、私自身もこの場には姿を見せなくなるのだ、と。
「われわれが生きているこの経験的世界の事物は無常で儚い。
あらゆるものが、一瞬一瞬、変化しつつながれて行く。
本質的に無常なこの世界が、それ自体で自立的に存在できるはずがない。
そのような存在世界が、それでも存在性を保っているのは、背後に巨大な力が働いていることを物語る。
あらゆる存在者を存在させ、それらを存在性においてはじ把持する無始無終の力、
存在の永遠のエネルギー、それこそ世人が読んで『神』となすところのものにほかならない。」
井筒俊彦「意味の深みへ」岩波文庫P296 より引用
もしかしたら、石垣りんは「それこそ世人が『神』となすところのもの」が「みえない」と表現しながら、
見えない領域の存在を言っているのかもしれません。
それはどこまでも肉眼では見えないゆえの永遠の憧れなのでありましょう。
それが見える場とは、ただひとえに、イエスの真実に促されて、
その道を祈りながら、歩みつづけている内に、自分が招き入れられている、と、突如、実感的に気付くのです。
そして、その出来事を証し、告白する場こそが礼拝の場になるのではないでしょうか。
憐れみたまえ、主よ。あなたの真実によって、身元にお招きください。 アーメン。