≪メッセージの要旨≫  2021年   7月 18日   聖霊降臨後第8主日

        
聖書 : エレミヤ書         23章  1〜 6節
             詩篇             23編 
             エフェソの信徒への手紙  2章 11〜22節
             マルコによる福音書     6章30〜34節、53〜56節

        
説教 : 『 食物を与え、病を癒す 』   木下 海龍 牧師 (代読:大石兄)
            
          教会讃美歌 :  187、 410、 333、 470


 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、
     飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
」34節
この群衆はいわゆる後の時代に明記されているキリスト教会の会員ではありません。
その彼らを深く憐れんで、「イエスは『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』と仰ったのでした。
『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とイエスが弟子たちに仰った言葉は、その後の初期教会において、
またローマ帝国時代の苦難の時代においてもキリスト者の規範となってゆきました。
当初、弟子たちは群衆自体が彼ら自身の自助によって、まずは飢えをしのぐ手立てをこうずべきだと反応したのでした。
それは一般的な思考パターンであったと言えましょう。
先ずは自助であるべきだ、と。
イエスはイヤ!! 今は!互助の力で彼らの飢えに対処せよ、と命じたのです。
その結果は、残りのパンと魚が12の籠に一杯の祝福となって帰って来たのでした。
この残りの量は弟子たちにとって、その後一週間分の食料になったことでしょう。

 ハルナックは「使徒憲章」から執事の義務を引用して、
彼らは病者、弱者、貧者、および身体が不自由な者のために選び出されているとし、
「彼らはよい業を行うことが期待されており、日夜全体の見守りを行い、貧者を軽んじも、富む者を重んじもしない、
 彼らは誰が困っているかを見極め、その人たちが教会の資金の分け前からもれないようにする、
 また羽振りの良い者には善行のためにお金を取りわけておくように促す」と書いています。
       「キリスト教とローマ帝国」(The Rise of Christianity)より引用

 あるいはポンティアヌスが書いたキュプリアヌスの伝記の中から、
この司祭がカルタゴの住民にどんなことを命じたかを読んでみましょう。
 「人々が集められると、彼はまず憐みの功徳を説いた・・・・
  次に彼は自分の仲間だけをそれなりの接し方で愛するというというだけの慈しみでは何ら優れたところはなく、
  不信心な者や徴税人以上の何かをしてこそ、つまり善をもって悪に打ち勝ち、
  神のように憐れみあふれた親切な行いをし、敵をも愛する人が完全になれると続けた・・・・。
  こうして善いわざは教会だけでなく、あらゆる人に対して行われた。」P115
初期教会のこうした地道な積み重ねが続く中で、コンスタンチヌス大帝の治世、
313年の「ミラノ勅令」をもって、ついにローマ帝国はキリスト教を合法的なものとみなした。
以後、帝国と教会との関係は急速に改善され、迫害時代に教会が被った損害には国家賠償が支払われた。
一時的に、ユリアヌス帝はキリスト教の興隆を押し戻し、多神教を守ろうとして、
神官たちに、キリスト教徒に並ぶ行いをいくら求めても、反応らしき反応は返ってこなかった。
ローマ人が慈善を全く知らなかったのではなく、慈善が神礼拝にもとづいていなかったのである。
 「キリスト教徒は危険を顧みずに病人を訪れ、優しく介護し、キリストにあって仕え、
  そして、彼らとともに喜びのうちにこの世を去りました。
  この人たちは他の者から病気を移され、隣人たちの病を自らの側に引き寄せ、
  その苦痛を進んで自分のものにしました。
  そして多くの者が、他の人たちを看護し癒したとき、その者たちの死を自分に移して自ら死んで行きました・・・。」
こうした奉仕によって、多くのキリスト者が亡くなって行きました。
それは儀式ではなく、「神の国」に至る訓練だと受け止めて行動したのでした。
死ねば終わりではなく、イエスが迎えてくれるみ国へ招かれるのだ。と固く信じていたからです。
キリスト教徒による介護が、160年と260年に起こった疫病患者へのこの奉仕によって、
キリスト教徒も多く死んだのだけれども、お互いの献身的な介護によって、
キリスト教徒の疫病からの生存率が高かったのは、
 「寄る辺のない人が救われたのは、キリスト教徒が忍耐強く口元に運んであげたスープのおかげと、
  彼らがささげたとりなしの祈りであった。と言ってよいであろう。」 
さらにキリスト教徒自身も、その看護を受けて回復し、
免疫を持ったキリスト教徒が確率的に多くなっていったのも事実であった。
彼らの姿が患者たちの中で不死身のように映ったとも言えよう。
実際、病者の看護で最も活躍したのは、最初期に感染し、看護されて治った人々であった可能性が高いと考えられる。
こうして「死にかけていた」人々を救う奇跡の担い手の一大勢力が生まれていったのであった。
160年にはキリスト教徒と多神教徒との人口比率は1対249であったが、
疫病が終息した170年にはその比率は1対197へと変化していた。
その後の10年間では1対134までになり、二度目の疫病が終息した260年には、
997人のキリスト教徒と4062人の多神教徒が居たことになり、この比率は1対4なる。
疫病の危機の中に在って、キリスト教徒があらゆる人に奉仕せよとの理念を全うしたしたとしたら、
数多くの多神教徒が隣に住んでいたキリスト教徒のおかげで命拾いをし、恩義に感じただろうこと。
もう一つは、
キリスト教徒が単に死をおそれないばかりか、死ぬ確率まで低いことはローマ市民の誰もが気づいていたはずであった。
こうした疫病の中で、死亡率が低く、そのために出生率も変わらなかったと考察されるので、
一般ローマ市民とキリスト教徒との人口比率の差はますますチジマッタと言えよう。
マクマレンは疫病から回復して「『免疫力』を持ったキリスト者の群れが
疫病をものともせずに介護している様子に奇跡を見たと言っても過言ではなかった。
その奇跡行為から多くの改宗者が起こる事態が非常に多かったのも当然だ、と言う」
キリスト者の生存率が非常に高かった事が奇跡以外の何ものでもないと思われた。
高い生存率はそれだけ免疫を持ったキリスト教徒の確率が多くなるわけであるから、
彼らの姿が患者たちの中で不死身のように映ったともいえるであろう。
このようにしてコンスタンチヌス大帝による313年の「ミラノ勅令」の直前には、
既にキリスト教徒の数は侮れない人数になっていたのであります。
(前掲の書物から多くを学び引用しました。贈って下さった訳者穐田信子姉に感謝)

憐れみたまえ、主よ。
世界中に蔓延しているコロナ禍の中で、わたし共をイエスのもとで一つにして、
あなたのみことばに従う者としてください。
     アーメン。

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